二千二百七十二(普通のうた、和語のうた)新幹線敦賀延伸記念(常備駅と配置区所、急行越前)
甲辰(西洋未開人歴2024)年
三月十六日(土)
本日、新幹線が敦賀迄延伸した。敦賀駅の電光掲示板に「東京」と表示されれば、感激はひとしほであらう。途中の福井駅は、それほどではないかも知れない。その理由は、かつて急行「越前」が上野と福井を往復した。
福井客貨車区について調べると、貨物駅の南福井にあった。上り(米原方)本線の外側に、上1から7まで両方向へ繋がり、8から13は直江津方が車止め。その外に、電留線1本、車庫1、2が庫内、電留3は検修庫手前で車留め、4は庫内まで、5から11でこのうち10と11は扇形で転車台の先は三線。上15、16が客貨車区の検修庫で、15のみ先が10と11へ繋がる。17から21が洗浄台(17と21は片側づつ)。
典型的な客貨車区と機関区である。下りは本線の外に下1から3で、2と3の間にホーム。4から12は米原方に車止め。13の米原方は貨1から11(4は欠番)。3と8はホームに横付け。7、10、11も積み降ろしできるか。
昭和15年福井操車場、昭和27年南福井駅へ改称し、福井駅の貨物取扱の一部を移管。車端下部の略号と駅名が異なるのは、ハタ(田端操駅)だけかと思ったが、フイ(南福井駅)もさうだった。この記事を書きながら、もう一つ思ひ出した。大宮駅構内にあった大宮客貨車区は、東北上越新幹線の工事で、大宮操駅構内に移転したが、略号はオオのままだった。
この逆に、駅名に特化して貨車区と異なるのが、ムソ(武蔵野操車場、武蔵野貨車区)とタミ(東京貨物ターミナル駅、大井貨車区)だった。古くはミハソ(宮原操車場、宮原客車区)があったが、ミハに変更された。
昭和47年頃に出版された一般の人向けの鉄道事典(と云っても鉄道ファン以外は見ないだらう)には、電車と気動車は配置区の略号、客車は常備駅と書いてあった。昭和52年辺りの新版では、客車は常備駅または配置区と修正された。後者は駅と独立した場所に作られた青森運転所や仙台運転所のことだと解釈した。
小生は長年この記述に従ってきたが、二年ほど前に鉄道関係者向けの雑誌を読み、昭和40年代に常備駅または配置区と書かれた表現を見つけた。常備駅と配置区の違ひは、構内は駅で検修庫の周辺が客貨車区なので、客車の滞在時間の長い常備駅としたと思ってきた。後に、かつて検車区と車電区だったものを客貨車区に統合したため、その前からの名残りだと気付いた。
(追記3.21。もう一つ、後に気付いたことがある。鉄道管理局に客貨車課があり、ここで検査周期などを管理するから、駅か客貨車区かと気にする必要は無かった。ジャンパーの接続と解放も同じで、操車掛か客貨車区かと気にする必要は無かった。)
南福井駅の駅名については、大宮駅から大宮操駅を分けたのと、田端駅から田端操駅を分けたのが昭和36年なので、その前は普通の駅名かも知れない。因みに郡山操車場が郡山貨物ターミナル駅になったのは昭和50年で、このときは周辺駅の貨物取扱を集約したための命名であらう。
操駅やターミナル駅出る前は梅田汐留隅田川など

外にも、百済、笹島、東横浜、沼垂など。

本日インターネットで検索して、面白い記事を見つけた。急行「越前」で一両だけ空車だった話だ。「昭和の鉄道員ブログ」で国鉄を退職された方が書かれた。乗客として乗ったところ
EF70の後ろには施錠された回送車のオハフ、その後ろに普通車が4両。続いてグリーン車が2両でそのうち1両は故障したB寝台車の代用、その後にB寝台車、A寝台車、荷物車が各1両ずつで計10両(以下略)

途中で団体が乗ると予想したところ、上野まで乗らなかった。
もともと非冷房の車両ですから接客設備上の故障はなかったと思われますし、(中略)何のために回送扱にしたのか疑問のままとなりました。しかし、かなり経ってから、(中略)突然私なりの解答が閃いたのです。

その解答とは
点検で3号車のB寝台車に、(中略)故障が発見される。(中略)早速予備車の寝台車と差し替えるところですが、あいにくそれもない。自由席ならともかく寝台車である以上、非冷房の普通車に差し替えるわけにはいかない。グリーン車なら1両余っている。

ところが横川軽井沢間は急こう配だ。
この当時の福井客貨車区所属の普通車はオハとオハフ、寝台車はオハネフに統一され、重いスハやスハフ、スハネは1両も配置されていません。この配置表で、姉妹列車急行「能登」(長岡経由で横軽を通過しない。)を受け持っていたと思われる金沢運転所の配置車種と比較すると、金沢運転所にスハの配置はありませんが、スハフとオハフが混在していますし、B寝台車はスハネ16が9両も配置されています。

この空車は、積車が換算3.5、空車は3.0だった。
時刻表の編成表には「8号車は連結しない日があります」と注釈がありますが、(中略)オハネフをスロに差し替える入換時に8号車オハも編成から抜き取っておけば格好がついたことです。(中略)いまさら中間の普通車8号車を1両切り離すわけにもいかず、(中略)苦肉の策として9号車オハフを回送扱としたものか?

これは元国鉄車掌の推定だが、おそらく正しい。
横川と軽井沢には急勾配 重量による苦労あり 古い車両の故障重なる

反歌  横軽は新幹線に進化した建設電気車両費高し
今は、運転士と車掌が楽になった。車掌は現車(車両数)と換算重量を調べて、機関士に通告する必要が無くなった。遠回りして勾配を緩和し、容量の大きな機器を使って過熱や出力不足や過走を防ぐ。(終)

追記三月十八日(月)
敦賀にも昭和四十年まで四年間だけだが、上野行きの列車があった。特急「白鳥」で、大阪発青森行きと大阪発上野行きを併結し、直江津で分離した。昭和四十年に上野行きが廃止され、上野金沢間に特急「はくたか」が新設された。「はくたか」の名称が北陸新幹線に再利用されてゐたことを、本日知った。と云ふより前に乗ったこともあるのだらうが、JR分割以降のことは頭に入らなかった。
白鳥は哀しからずや上野行き消えて六(む)十(そ)年今かがやきに

「白鳥」は特急列車名を優先すれば「はくちょう」、牧水の本歌取りを優先すれば「しらとり」。
つるが舞ふ福(さいはひ)の井と金さは(多)に富める山見て 春の日の山を曲がりて南へ向かふ

反歌  春日山右に曲がりて東(あづま)はや山超え向かふ巨(おほ)きな京(みやこ)

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