二千二百十九(うた)六十一歳以下と歌観が異なる理由を探る
新春前癸卯(西洋未開人歴2024)年
一月二十二日(月)
六十一歳以下の人たちと歌観が異なる理由について、まづ八十一歳米国加州の方の
かの日々に移り来し人等耕しし 大和(ヤマト)と呼ぶ里アマンドの花

外国で暮らす日系人の方々を選ぶことには大賛成である。しかしこの歌は、日本国内で日本語を日常使ふ人たちから見ると、異なる感覚がある。「人等」は単数複数の区別に厳しい英語の感じがする。「かの日々」の日々もさうだが、もう一つ「かの」である。「大和と呼ぶ里」も英語の影響があり、だから字余りをそのまま残したのかも知れない。
小生が「加州」と書いたのは、日系人の加州新聞などがあるからだ。日系人の方々で日本との繋がりを維持する方々には、親近感を持つ。
ここで想像するに、選歌に海外枠があり同じやうに中若年枠があり、そのため六十一歳以下に歌観の相違を感じるのかも知れない。
加州には サンフラン及びサンノゼに日本街があるものの 店のみにして住む人はほとんど無くも サンマテオ門徒の寺院街の中心

反歌  夏の夜に盆踊りあり大勢の日系人と寺の僧侶も
反歌  我が家では妻と子供を連れ添ひて盆踊りにて日本を偲ぶ

一月二十三日(火)
六十一歳以下の歌と、調子が合はない詳細を述べたい。
風琴の和音のやうに柔らかに多言語混じりあへる教室

「混じりあへる」が句を跨る。小生も音数を合はせるため、この歌と同じで軽く切れる単語が跨ることがある。それは、合はせるためやむを得ずの方法であり、できれば避けたい。この歌もそれと同じで、破調よりははるかに良い。良いがそれは個人の作品の場合で、一万五千七百余首から選ぶものではない。
見逃した小さな小さな違和感の粒で自分が作られていく

「小さな小さな」が、歌に合ふ表現ではない。
花散里が一番好きと笑みし友和服の似合ふ母となりぬる

「花散里」は「はなちるさと」以外に読み方があるだらうか。無いなら破調で、一万五千七百余首から選ぶものではない。
二十一歳と十七歳の歌は、批評を控へる。小生も二十歳前後の文章力はこの程度だった。選者もさう考へたなら、一万五千七百余首から別の歌を選ぶべきだった。
七十二歳と七十一歳の方の歌について(その一)で「一ヶ所づつ小生の歌観と合はないところがある」と書いたので、それを述べたい。
和菓子屋をなりはひとして五十年寒紅梅に蕊をさす朝

「蕊」が一般的ではない。選者がたまたま同じ趣味だった、では公共性を損なふ。
和だんすは母のぬくもり大島に袖をとほせば晩年に似る

「晩年に似る」は内容として分かる。分かるが「「晩年」を他の言葉に変へられないか。
七十二歳と七十一歳の方については、小生が一ヶ所づつ歌観が異なるだけで、調子は合ってゐる。しかし六十一歳以下の方とは、調子さへ合はない。七歳しか違はないのに。
八歳で東京五輪めぐり合ふ 九歳のとき経済の高度成長始まりて それが続いた十年間も

反歌  このころの七年間は江戸時代百年間と同じ長さか
反歌  NHKチロリン村の音楽がひょうたん島でまったく変はる

一月二十四日(水)
(その一)に書いた「八十八歳(中略)もよいかな」は、歌の「和紙の証書」「六年生は卒業」への加点だから、年齢に依怙贔屓した訳ではない。依怙贔屓ではないが、年齢による習慣の差は大いに加点して、高齢者に花を持たせてあげることは敬老の心だ。
その逆に、若い人に加点してはいけない。若いのだからこの程度だが選ばう、だとその人の為にならない。
敗戦で貧しい中を生き抜いた人たちの歌 習慣の違ひ大いに加点して花を持たせて真の敬老

反歌  若い人それを理由に入選はそこで成長止まるの惧れ

一月二十五日(木)
一万五千七百余首の中から選んだにしては、改良の余地がある。おそらくそれぞれの選者が第一次で合計百首くらいに選別し、それらを全員で見るのだらう。
それだと第一次で、別の選者だと落とされなかった可能性がある。選者ごとに観る部分を公表し、選者を希望できるやうにする方法が、まづある。次に今はAIが発達したので、選者に合った歌を振り分ける方法が、二番目にある。
入選、佳作のほかに、準佳作を作れば、ここに入ることを目標にするから、全体の質が上がる。若い人向けは奨励賞を設ける方法もある。入選八首と奨励賞二首を歌会で朗詠する。(終)

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