二百三、船の科学館閉館(その三、船員失業の時代)

平成二十三年
十月五日(水)「全日海の和田氏」
船員と聞いて一番に連想するのは海員組合から民社党の国会議員になつた和田春生氏である。企業別組合を厳しく批判した。私もまつたく同感である。日本が職能別組合なら私も欧州の企業形態と消費税に賛成である。ところが日本の企業別組合では貧富は拡大する。このようななかでは消費税は絶対に増税してはならない。菅直人はなぜそんなことも判らないのか。口先だけで偉くならうとするからこういふ低質な政治屋が出てくる。

十月九日(日)「A石油」
十七年前にA石油といふ悪徳石油会社に違法派遣で行かされたことがある。なぜ悪徳石油会社と呼ぶかといふと、この対等合併してできた石油会社の元の会社に商業高校を卒業したはかりの私の妹が昔就職した。ところが夜遅くまで働かせるために高校までは視力がよかつたのに眼鏡をかけるやうになつた。別の二部上場会社に転職してから生活がまともになつた。世の中にはひどい会社があるものである。
そんな会社のコンピユータ室に違法派遣で一年弱勤務した。派遣労働に出すには派遣として雇用するか派遣だと通告しなくてはいけない。私はそのどちらでもない。派遣を営む事業所は職安に登録しなくてはいけないがこれもしていなかつた。つまり二重に違法である。しかも私の所属する部の他の人は全員社内勤務なのに私だけ派遣に出した。このことは今でも中労委で争つてゐる。
コンピユータ室は機械から出る熱ですごい暑さである。コンピュータ室のすきまから扇風機で隣の百人近くが勤務する巨大な広さの事務室に向けて風を放出すると少し改善された。
ところが隣から暑いと苦情が出たのであらう。建物管理係が来て扇風機を止めた。狭いコンピユータ室の空気を放出するだけで隣の広大な事務室が暑くなる。そんなコンピユータ室に勤務するから痛風になつた。派遣で来た技術者は病気になつても事務室が涼しければかまはないらしい。これがA石油を悪徳石油会社と呼ぶ理由である。
そのA石油の全国の支店のなかに元船員といふ人がゐた。全国の支店にパソコンを導入するため私も札幌から福岡まで四ヵ所くらい回つた。タンカーを直営から傭船に切り替へたのかも知れない。船員を外国人に切り替へたのかも知れない。その人は「我々は陸に上がつた河童と同じだからねえ」と言つた。支店は直接ガソリンスタンドと応対するため、いい人が多かつた。

十月十日(月)「社長の姪」
船員養成学校を卒業したばかりの社長の姪が入社した。私が教育担当となつたが翌日社長の弟で取締役の人に「技術者は無理ですよ」と進言した。「そこを何とか」といふので私も胃が痛くなつたり大変な思ひをして何とかC言語ができるまでになつた。
技術部門に配属されそこの部長たちも「何とか教育します」と努力したが、ストレスで髪が抜けるようになり数カ月で退職して行つた。船員希望者は船員になるのが一番よい。女性もどんどん船に進出すべきだ。
若者たちの夢を砕く円高を解消すべきだ。

十月十四日(金)「船との係わり」
私はこれまで偶然に船に関係する仕事が多かつた。まづ前の会社の営業部長は元大手造船会社の香港支店長だつた。この人はとんでもないトラブルメーカーでAcerの日本社長の話があり私を秘書に連れてゐくとか言つてゐたがこの話は立ち消えになつた。その後、私が今勤める会社からシステム課長のSさんを引き抜いたが、Sさんは仕事のトラブルからかその後離婚するなど大変なことになつた。

石川島播磨の仕事もあつた。十数年前に呉造船所のコンピユータの設定に五回ほど出張した。社員食堂は広い部屋の一部で細々と営業してゐた。豊洲にも二回行つた。豊洲の造船所は今はない。

或る大手商社の海運子会社の仕事もあつた。以前はコンピユータのソフトを作る4GLと呼ばれる製品がたくさんあり、その一つでかつては日本語マニユアルもあつたが十年前にはオランダの会社が細々と販売する製品で日本では恐らくこの海運会社だけが使ふ4GLを担当した。傭船といふ言葉を知つたのはこのときである。
最近は貿易赤字で喜ばしい。但しこれまでの厖大な累積黒字による海外投資からの利益で、国際収支は黒字である。財務省は厖大な資産が海外に逃げないよう制度を作り、その上で資産から課税すべきだ。貧乏人から消費税を巻き上げるとはとんでもない。
国際収支が赤字だと、黒字にするために国民は一丸となれるし、人を大切にするし、船員や造船所も日本人が活躍できるようになる。(完)


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