千九百八十二(うた、和語のうた) 通勤時の小旅行
壬寅(西洋野蛮歴2023)年
三月三十日(木)
月に一回のジパング倶楽部旅行のほかに、仕事終了後に違ふ経路を使ふことがある。ごく稀に、仕事終了後にわざわざ行くことがある(例へば銀座訪問)。午後も勤務がある場合は、昼休みに散策することもある。
これらを合はせると、月三回(又は四回)になる。つまり月一回の日帰り旅行と、三回又は四回の立ち寄り旅行をする。今月の違ふ経路は、次の三つだった。
1.帰宅時に環七を走るバスに乗った。
2.出勤時に環七を走るバスに乗り、帰りは二十分ほど歩き、別のバスで帰った。
3.出勤、帰宅共に、国道十七号を走るバスに乗った。
バスの終点が赤羽のときに、赤羽公園まで花見に寄った。桜が群生せず、数本が園内に散らばる。これが一番美しい。公園の説明に、赤羽台団地が出来て駅の東側も開けてきて公園ができたとある。団地は昭和三十七年から四十一年に建設されたから、そのころの公園は桜を群生させなかった。
今月の通勤時の小旅行は、バスに五回、公園に一回となった。あと、鉄道運賃値上げ前に、渋谷から東横線に乗った。
通勤の行きか帰りに別経路 バスに乗車し寄り道をする楽しみは 初めての場所への不安 乗り越える心の支へ今日も旅する

(反歌) 初めての場所は不安と楽しみが不安だけだと長続きせぬ

四月三日(月)
東武伊勢崎線の松原団地近くに仕事があった。今は独協大学前(草加松原)と駅名が変はった。草加松原は、駅名が今でも松原団地と間違へる人(小生もさうだが)がゐるので付けたのだらうと思った。ところが国指定の名勝だと判った。
今まで知らなかった理由は、平成二十六(2014)年に指定された。昭和五十七(1982)年まで松並木の中に上り車線があった。そのため松が大量に枯れて六十本になった。それが今では五百二十本にまで回復した。
綾瀬川を渡る古風な橋が一つと、横切る道路を超える古風な橋一つ。そして南端の煉瓦製旧水門は、綾瀬川が洪水の時に伝右川に流れ込み田圃を水浸しにしないためのものだった。
松原団地については、何と三年前までに解体された。賃貸マンション、分譲マンションに変はりつつある。先日の三つの経路の前に、赤羽台団地近くの仕事があった。帰りに団地内を歩くと、解体した場所に建設中だった。既に入居した地区もある。さう云へば、南浦和団地も同じだ。
日本(にっぽん)でオリンピックが開催の 頃に都内と近隣の三つの県に作られた 多数の団地次々と建て替へとなる 一つには耐用年数二つには時代遅れで歩きにて五階へ上がるは今では無理に

(反歌) 建て替へてカタカナ名の賃貸と民間による分譲になる

四月四日(火)
本日は、明日勤務する現場の事前引き継ぎに行った。引き継ぎ制度は廃止されたが、マンション情報書が無いときと、管理会社が希望する場合は、交通費だけ出る。
往復の時間と現場での時間を考へれば、行きたい訳ではない。しかし今回は行ってよかった。あれだけのことをマンション情報書無しでは無理だ。
もう一つよかった理由がある。場所は須田町なので、秋葉原で降りて電気街とヨドバシに寄った。電気街が寂れたのは、ヨドバシが原因だ。
秋葉原 大きな店ができた後 周りの店は次々と閉じて今では若者の街

(反歌) 元の品いなずまの技画(え)を映す数を操るほかと繋がる
そのあと須田町へ行った。電気街は昔の都電の停留所で万世橋、その次が須田町だった。昔は途中に、交通博物館があった。本館と新館と庭にも展示があった。
よろづよの橋はそののち読み方を変へて変はらぬ神田川 渡りてかつてはがね道船や車と空航(わた)る乗り物を観る二つの館

(反歌) 神田川渡るとすぐに須田町へ乗り換へ繁し唱へる歌に
引き継ぎ終了後は、神田駅から帰宅した。昔は、須田町の次が神田駅前だった。

四月五日(水)
本日は、昨日のマンションに管理人として勤務した。ほかに清掃員が午前中勤務する。小生は午後三時までだ。昼食は、街歩きをして路上販売の弁当を買った。魚屋さんが副業でやってゐるやうだ。
昼食後に、再度街歩きをした。祭物店が、仕入先廃業で取り扱はなくなったので、浅草辺りで購入してほしいとあった。ほかの商品は引き続き扱ふとあった。たまにこのお店のやうな形態の店がある。一階が店、二階が居住用だ。
下町の店が僅かに残る街 神田下谷に浅草と本所深川江戸日本橋

(反歌) 下が店上は住まひで二間あり勝手と厠いそとせ前は(終)

追記四月七日(金)
点在する個人商店は、土地売買の話が無かったか断って来たのだらう。かつて下町の土地は、庶民に購入できない金額では無かったし、借地かも知れない。
そして子どもは、神田で生まれ育っても今は別の場所に住むのだらう。だから千代田区は、公立中学校が二校しかない。一つは区の中央、もう一つは西側だ(更にもう一つ、中等教育学校があるが、入試があるから誰でも入学できる訳ではないし、西側だ)。東側の神田は、もはや庶民の町では無くなった。

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