千八百八(和語のうた) 太田青丘「太田水穂と潮音の流れ」
壬寅(西洋野蛮歴2022)年
八月二十一日(日)
太田青丘「太田水穂と潮音の流れ」を借りた。まづ注目すべきは
いはゆる師承乃至グループ関係といふものに依らない孤往的存在であったこと

私も結社に所属しないから、これは親近感を持った。そして
アララギの興隆乃至全盛期に大方の歌人が皆アララギの歌風に近づいた中にあって、終始これと鋭く対立したこと。

これも同感だ。戦後の大きな変化で茂吉を、左千夫とは別の流れ、左千夫に師事したのは短期間、とする説が広まったため、私はそれに対抗してきた。
水穂の全著述は、畢竟するに、
歌はどうしても現象から這入らずに感動の方から這入って行かなければならない。

これも同感である。私も、現象を見た心の写生、と云ふ言ひ方で子規との全面対決を避けてきた。
水穂には これまで歌を読むだけで 歌論き及びその動き調べたことがないだけに これらを読めば得る事多い


八月二十二日(月)
戦前と戦後では世の中が一変したが
戦後アララギの写生主義に対して或る種の反省が生ずるにつれ水穂は改めて顧られてもよかったのであるが(中略)水穂の戦争中の言動が、戦後左派的陣営の側から烈しい非難攻撃を浴び(以下略)

戦前、戦中、戦後で、時代が変はったから言動が変はるのは当然だ。言動を非難してはいけない。左千夫批判が昭和五十年頃から出てきたのも、大正時代の民本主義の前に亡くなった左千夫の言動から茂吉を切り離さうと、戦前生まれが少なくなった昭和五十年頃から出てきたのではないかと思ふ。
歌人としての評価についてであるが、潮音社内では(中略)芭蕉俳諧の摂取に立ち向った第五歌集冬菜と、(中略)第六歌集鷺鵜、第七歌集螺鈿を高く買ふのであるが、歌壇もしくは学界(?)の評価は、(中略)アララギによって代表される大正期歌壇の一般的歌風にも比較的近似性のあった第四歌集雲鳥に中心があって、冬菜は失敗作とされる(以下略)

これについて
短歌と俳句とは本領の相違があるのを無視するものとした赤彦の評言が今日といへどもなほ生き続けてゐる(以下略)

これについては
漢詩に学ぶところの多かった新古今集に見られる上下句の飛躍省略法の発展たる芭蕉の連句形式の活用--舞台を広くとって内容を豊富にする--は(中略)一般庶民の間にも及びつつある(以下略)


八月二十三日(火)
水穂の歌は観念的であるといふ評について(中略)水穂は物の側に傾く写生派に対立して、主観を重んずる象徴派の歌人として、その歌論は哲学宗教をうって一丸とする芸術論を展開した意味でも、人生観宇宙観に立つ観相の歌人であったことは事実である。

さて
短歌における音楽性を重んずる立場から、声調、ひびきをも具体化の一つの重要な要素であると見なしてゐたので、写生派の専ら具象化をいふのに対して、彼は具体化といふ語を用ゐるのを常とした。

話は変はり
彼は当時、自然主義に対して理解は示したが、これを十全のものとはせず、結局は次に来るべき段階への道程として認めるといふ批判的態度を早くも示してゐた


八月二十四日(水)
水穂の第一歌集「つゆ草」は、冒頭に掲げた二首のほか、解説に載る
「大汐もゆたにさし来て芝はまや渚の杭の波にかくるる」や「秋の日は入江に落ちて海の上を一かたまりの黄雲いざよふ」のごとき(中略)このことは旧派的な古い観念を打破するには、ひとたび万葉の素純に学ばなければならなかったことを意味する。

水穂は、子規が万葉を唱へる前に「この花会」結成、翌年「万葉研究会」と万葉に傾倒してゐた。
次の『山上湖上』に至ると、観相的・理念的傾向がいちじるしく強くなって(中略)このことはまた(中略)万葉風(万葉調および写生風)の歌がとみに減退し、古今・新古今の観念的・構成的傾向に近接(以下略)


八月二十五日(木)
水穂は
歌人は漫然と思ひを述べる(中略)に陥ってはならない。(中略)万物共同連帯の自覚を新たにするところに歌人の精進があるとして、(中略)東洋の古哲、とりわけ良寛・芭蕉の心蹟と作物に示唆をうけて、「万有愛」と名づけた。

ここまで賛成。
また表現の態度としては、(中略)「アララギ」の行き方に対して、「感動本位」つまり直観の立場を主張した。

これも同感。子規が写生を主張したのは
(1)西洋画を見た感動
(2)旧派への批判
(3)明星への批判
ではなかったか。つまり写生は手段であって目的ではない。或いは、行き過ぎの是正であり、いつまでも写生の主張を続けてよいものではない。(終)

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