千七百七十一(うた) 閲覧注意1.「車輛工学」誌(松本客貨車区、松本運転所、塩尻客貨車区、新宿客貨車区)、2.「車両と電気」誌(塩尻客貨車区)
壬寅(西洋野蛮歴2022)年
七月二日(土)
「車輛工学」誌に「車両風土記」と云ふ連載記事があった。Vol25No1(昭和三十一年二月)に松本客貨車区の記事があるので、紹介したい。
創立まもない区である。何も彼も不足がち、(中略)廃車なども利用して建物の不足を補つている。

に始まり
信濃大町には、当区の派出があつて、客貨車の検修と客車の洗滌をやつている。だいたい受持区域にしても(中略)中土-松本46.2粁が主力で、外に篠ノ井線の塩尻-麻績46.2粁(中略)が当区の受持になつている。

この当時は、つまる音を「っ」ではなく「つ」と書いたらしい。
定員65人。客車の配属は54両。昨年度の年間作業実績は、客車関係仕立検査404両。局部検査37両。純修繕171両。滞留検査7243両。貨車関係、仕立検査2821両。局部検査324両。乙修繕24両。純修繕1225両。
列車検査(旅客)3668本、(貨物)4625本、(混合)3667本。大掃除(客車)6617両である。

ここには多くの情報がある。客車は配属(管理局名)の漢字一文字と常備駅のカタカナ二文字を書いてある。常備駅と云っても検車区と車電区が合併し客貨車区になったので、現場の感覚では配属だったのだらう。
因みに動力車(電車と気動車)は、配属(管理局名)と配置(区所名)だ。54両で仕立検査404両だと、年に7.5回。後の交番検査だと判る。局部検査37両だと年0.7回。後の要部検査、更に後の交番検査(指定取換)だと判る。滞留検査7243両は日に0.37回。後の仕業検査だと判る。

次に、車両工学誌Vol49No10(1980年10月)には「松本運転所の技術管理室」が載るので、これを紹介したい。
昭和40年7月1日から中央東線の電車化を実施し(中略)松本運転所が開設された。
(1)開設年月日 昭和40年4月1日
(2)統合機関名
松本機関区、松本客貨車区、大糸線南部管理所北松本車務室、同信濃大町車務分室

このとき塩尻支所、北松本支所、信濃大町派出所も置かれた。本所の車両配置数は、電車が280両、気動車が9両、客車1両、貨車1両。北松本支所は電車が37両、電気機関車が3両。
客車は救援車を除き、もともと無かった。とは云へ、松本終着及び始発の客車列車があったから、駅の構内に留置線が必要だ。
技術管理室については、車検長1名、車検13名、車修1名で構成された。
新宿と松本間が電車化で 機関区および客貨車区 運転所にて統合される

(反歌) 塩尻の機関区および客貨車区運転支所でここに生れる
「車輛工学」誌は国会図書館のデジタルコレクションで見つけた。塩尻出身の潮みどりの歌集を調べる為に利用者登録した。今回これを思ひ出し利用した。
塩尻のみどりを本で読むためが今も調査に登録生きる

塩尻機関区と塩尻客貨車区が松本の電車配置で移転したことを知った。これまでは、もとからあったとばかり思ってゐた。(終)

追記七月三日(日)
塩尻の客貨車区は、大正十四年に塩尻検査所として発足したことが分かった。塩尻運転支所の新設は機関区機能だった。松本運転所開設時に松本から客貨車区機能も移転したと思ったのは、松本客貨車区の受け持ちが塩尻までだったためだ。通常は所在地を中心に周辺を担当する。昨日の反歌に間違ひを反映させると
塩尻に機関区機能新しく運転支所でここに生れる

車輛工學Vol20No10(1951年10月)に塩尻客貨車区が載る。
156名の区員、客車の受持100両その大部分が木製車(中略)貨車の仕立645両、乙修20両、ガラス張りの完備した検修上屋は立派なものだ。

小淵沢、辰野の派出、上諏訪に支区があり
受持区域の延長205粁388米に及んでいる。

車電については
旧車電関係45名が合流したが(中略)すでに車電出の区員が自連の分解、三動弁の組立と立派に活躍していたし、検車出の区員は充電を手伝うといつた仕事を修得していた。

次に「車両と電気」誌Vol32No6(1981年6月)に「塩尻客貨車区」がある。
塩尻峠(1013米)を貫通する大工事が着工され、近年度には「塩嶺トンネル」として開通の見込みにて(中略)現塩尻駅舎の移転、総合庁舎総合信号扱処等の新設、(中略)客貨車区検修庫及び付属建造物の改築等(中略)急ピッチで進行中である。

業務範囲は
「南松本オイルターミナル」の私有貨車受持区として、また「長野-名古屋」「新宿-長野」間の長距離旅客列車の中間検査地点として、「サービス班」の任も極めて大きく常時2名が担当している。

中央東線だと、八王子と南松本にオイルターミナルがあった。
更に昭和44年発足した列車掛制度の導入の際にも、要員の確保、教育の充実等により、10行路1060粁の運転に寄与している。その他昭和39年配属の15瓲操縦車も(中略)65瓲の大型が配置され(以下略)。専属車については、緩急車、チップ車、ホッパ車の外、定尺軌条専用車等の保守に当っている。

列車掛は貨物列車の車掌で、従来は大きな駅で行った貨車の検査を、列車掛が停車中に行ふやうになった。移行段階で、車掌区と客貨車区にそれぞれ列車掛がゐた。小さな駅では、入れ替への操車も担当した。インターネットで調べると
乗務検査業務
列車の運転に関する業務
列車及び車両の入換業務
指定された者は車掌の職務
指定された者は車両検修掛の職務
最後の二つで、車掌区所属と客貨車区所属に差が現れた。しかし、業務ではなく職務なので、乗務中は担当しなかったのではないだらうか。事故で長時間停車したときは、車掌や検修掛として臨時に手伝ふことはあり得る。
職名区長事務助役技術助役事務掛検査長運教検査掛検修掛列車掛構内整備掛準職構整合計
定員1153723014261090
現在員115472323250888
10代235
20代12517
30代2141926
40代123
50代115172162237
○受持区域 中央東線「小淵沢」中央西線「田立」篠ノ井線「南松本」
○乗務行路、距離  10行路、1060粁
○受持車両 操重車 1両、救援車 2両、緩急車55両、ホッパ車、チップ車、レール積車、19両  計77両
○作業量 貨車交番検査 1日18両、客車交番検査 1年14両、臨修 1年200両、純修 1年2340両 仕業検査 1日29本、サービス班 1日109本

検修掛が定員に対して少なく、年齢構成で見ると若い人が列車掛になったことが分かる。不足分を臨時雇用8人で代行したのだらう。客車の交番検査は救援車のみで、貨車区と改称してもよい。例へば武蔵野貨車区は救援車を受け持ったが貨車区だった。改称しないのは、サービス班があるためだった。

追記七月二十二日(金)
運用中の車両に不具合を生じたとき修理するのがサービス班だと思ってきた。しかし上回りがサービス班で、下回りはそもそも客貨車区の受け持ち区間だった。
このやうな間違ひをした理由は、昭和五十年代に国鉄首都圏本部が駅で乗客向けに「首都圏ニュース」を配布した。その記事にサービス班があり、運用中の車両を修理するものと思ってきた。
従って私が今までの記事で「サービス班」と書いたのは、受け持ち区間のことである。なほ、サービス班の名称は他の鉄道管理局では異なるかも知れない。「車両と電気」誌で東京客車支区について調べるうちに見つけた。昭和36年客貨車の検査規定改定で旅客車技術班として誕生、昭和38年関東支社達で旅客車サービス班。

追記七月二十八日(木)
地域性で思ひ出すのは、昭和五十五年頃に、松本駅に到着した電車を留置線に入れるとき、半袖で胸のところに「操車」と書かれた(或いはバッヂか)開襟シャツ(紺色か)の駅員が運転室に乗った。首都圏だとヘルメットをかぶった駅員の旗で入れ替へるが、電車や気動車ばかりなのでこの形になったのか。長野鉄道管理局だけなのか。

本日は昭和三十一年の「車輛工学」誌から新宿客貨車区の記事を見た。
修車庫(中略)木造の老朽建物である。片側に作業室を構え、片側は裾なしの収容線1本のものだ。
(中略)
客貨車区という看板であつて、当区には客車の配属が1両もない。(中略)1日に68両の客車の大掃除を施行しているが(中略)飯田町区18両、甲府区16両、松本区15両。塩尻区18両。名古屋区1両となる。外に客車の滞留検査が一日平均45両ある。
(中略)
池袋、下板橋(板橋の間違ひか)、中野に派出所があつて、受持区域は山手線、五反田~池袋13.4粁。池袋~赤羽3.5粁。中央線、千駄ヶ谷~武蔵境15.4粁。計32.3粁となつている。
貨車検修線は有効長82米、101米、90米の3線ある。
客車洗浄線は、有効長154米、235米の2線である。後者に自動洗浄機が設けられている。


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