千七百七十一(うた) 閲覧注意松本駅と松本運転所
壬寅(西洋野蛮歴2022)年
六月三十日(木)
改札外の北松本側を見たあと、大糸線と松本電鉄のホームから見て、更に南松本側を見た。
一旦停止の標識が目印だ。今回気づいたのは、大糸線からは運転所にしか入れない。これは北松本運転支所を廃止したから、やむを得ない。
改札内側に駅職員の写真が展示してあり、輸送本部の旗と写る写真が二枚ほどある。改札で訊くと車両センターは南と呼ぶとのことで、このとき改札に入場者が来たので会話は終了した。
検修庫の東側の郡線は運転所構内で、本日見た最初は、ホームと平行の一線のみが駅かと思ったが、東側の郡線も駅構内か。これだと一旦停止の標識が矛盾する。
ここで長野運転所第二分所(旧、長野客貨車区)を思ひ出した。長野運転所の本所は北長野にあるが、客車は長野駅の構内で留置、整備を行ひ、検修は第二分所で行った。
運転区や運転所には、(1)機関区と客貨車区を合併させたものと、(2)新設したものがあり、長野運転所第二分所は(1)のため、次に(2)を見たい。
京都府の向日町操車場(略称、向操)は(2)だが、構内で留置、整備を行ひ、検修は運転所で行った。運転所内でも車両の入れ替へは操車場が行ふ。
運転所が行はない理由は、駅(または操車場)は操車掛、構内掛がゐるのに対し、運転所は誘導掛しかゐない。一両や二両ならよいが、長い編成の入れ替へはできないと考へられたのだらう。しかし昭和四十年代になってから作られた青森、仙台、秋田、新潟、静岡では、構内全体が運転所になった。この場合は、駅から離れた場所に新設される。
国鉄末期には、駅や操車場の操車掛が運転係(操車担当)、動力車区の誘導掛が構内運転係に改称された。駅や操車場の信号掛も運転係(信号担当)に改称された。
松本駅常備の客車があった時代は、入れ替へに便利なやうに検修庫の周りだけが運転所構内だったが、電車だけになると東側の群線も運転所構内になったのかも知れない。昭和五十五年頃だらうか、東側の群線にDD13が停車してゐるのを見たことがある。既にこの時代は、松本駅常備の客車が救援車のみだった。
両分けを車両について行へば 客貨車および動力車 動力車には気動車と電車を含みこれらだけ配属すると機関区が気動車または電車区となる
(反歌)
機関区で電車気動車扱へばやはり機関区改称は無し(終)
追記七月二日(土)
インターネットで、松本駅の昭和五十三(1978)年配線図を見つけた。それによると四番線、五番線が下1、下2でその外側が下3と下4。下り本線からは下1から下4へ繋がるとともに、下4からキ1から8まで塩尻方へ。下4からは更に南方へ下5から8。下4へ左分岐せず直進すると下8から10。その一本隣は、検修庫と平行に下11から13までで洗車台あり。その隣は大糸線の一本手前で下14から19。このうち15から17は検修庫。
これで松本運転所は客貨車区と同じで検修庫の周りのみが敷地だったことが分かる。
追記七月十二日(火)
JR東の長野支社が、旅行会社主催で松本車両センター見学ツアーを実施することを発表した。私自身は、観光客目当ての祭、鉄道ファン目当ての旅行、西洋猿真似施設には昔から行かない。だから今回も参加はしないが、撮影場所の図が載る。それによると電7から電11は、車両センター構内だ。つまり昭和五十三(1978)年で云へば、下5から下10に当る線が後に運転所構内になったのだらう。
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