千七百七十一(うた) 善光寺、浅間温泉
壬寅(西洋野蛮歴2022)年
六月二十八日(火)
本日は、善光寺と浅間温泉へ行った。目的は
1.善光寺御開帳の賑はひを観る(混んでなければ御開帳に入場する)
2.浅間温泉の裏山(桜が丘)にある伊藤左千夫の歌の碑を観る
3.歌会を開いた瀧澤本家を調べる
北陸新幹線で長野駅に着いた。着く寸前に扉付近の三人ほどの中年の集団が「駅からバスで十五分だ。どこのバス会社かな。一人なら三十分だから歩くのだが。」と話してゐた。
参道を歩き善光寺に着いた。予定どほり烈には並ばず本堂に入り、賽銭箱の手前で合掌し左側から外に出た。御開帳の列は左側だが、それほど長くはない。並ぶうちに、後方で「今は御開帳がすいてゐます」と整理のおじさんの声がした。
善光寺八年ぶりの御開帳 去年の筈を延期して期間も延ばし 本日は朝が偶々すいたため入場するも 明日は最終

本尊は外陣の先頭で拝む。板に絵が書いてあるやうに見えた。拝んだあと右側に移動し本堂下に入る。このとき少し本尊に近づくが同じく、板に絵ではないかと思ふうちに見えなくなった。本堂下は普段なら壁に手で触って簡単に抜けるが、一列に並ぶとなかなか大変だ。
出たあと、母へ足腰健全のお守り七百円を買った。最初はボケ防止のお守りにしようかと思った。足腰健全も、仏足石型のものもある。売り場の人とも相談し、お守り型のものにした。
善光寺を出る辺りの地図で、参道とは本堂と大本願の間だと知った。私は長野駅斜め前からずっと続く商店街のことかと思って、前回来たときは走って見に行った。
商店街で140円紙パックイチゴジュースを買った。善光寺平のイチゴかと思ったら、宮崎県で製造し、しかも果汁1%だ。味は美味しかった。

特急信濃で松本に着いた。私が乗ったときは一両に数名だったが、発車間際には二人掛け一列がほぼ埋まるくらいの乗車率50%に上がった。新幹線からの乗り換へ客かな。
松本バスターミナルで時刻表を見ると、浅間温泉行きは三十分ほど待つ。切符売り場の人に浅間温泉入口まで乗るのと待つのとどちらがよいか訊くと、旅館名を尋ねられた。まさか「滝澤知足さんの屋敷跡と伊藤左千夫の石碑を観に行く」と答へる訳にも行かないので、近くの旅館名を言ってそれなら浅間温泉行きを待ったほうがいいですね、となった。
松本駅で気になるのは、駅と運転所の境界がどこにあるかだ。(以下松本駅と松本運転所として独立)
浅間線が駅前から発着するやうになった。市役所が企画しアルピコ交通に委託した松本周遊バス(タウンスニーカー)三路線もここから発着するやうになった。去年か一昨年にバス停ができたらしい。(北市内線と云ふ大きな道路だけを走る新路線もここから発車する)
松本バスターミナルが昭和五十年辺り(不確実)にできてから、四十数年ぶりに駅前から乗った。バスターミナルにも入場し、ほとんどはここから乗車する。浅間温泉入口から先は、旧新浅間線から旧浅間線を回る一方通行になった。さうなると、浅間線と新浅間線の違ひは、信大横田線を走るか横田信大線を走るかだけになった。
駅前から浅間線が出るのは、路面電車時代みたいだ。浅間温泉の停留所は、従来より少し中浅間寄りに移動した。最初場所がわからず運転士に、昔の終点はもっと先でしたかと尋ねると、旅館名を訊かれた。ここでも瀧澤邸跡ではなく、上浅間の旅館名を云ふと、このまま循環するので湯坂にも止まるさうだ。だから湯坂まで乗った。ほとんどの乗客は浅間温泉で降りずに、そのまま継続して乗った。
湯坂では、古いマンションがあり広さとしては瀧澤邸にぴったりだが、松本電鉄が私的整理した時期よりマンションが古すぎる。あちこち探したがわからず、と云ふか最初の計画では瀧澤姓の個人商店があるはずで、そこで訊くはずだったが無かった。そのまま不動院などに行った。全体が不動院かと思ったら、西宮神社、不動院、薬師堂に分かれ、滝は浅間公園ださうだ。てっきり不動院だと思った。元は大音寺で廃寺になったと知った。
土産物店でお話を伺ふと、あのマンションが瀧澤邸だった。この店で野沢菜を買った。梅雨は昨日明けて暑い。伊藤左千夫の歌の碑は次回に回すことにした。中央通り商店街に、浅間温泉を詠った歌人たちの歌の碑がところどころにできた。代はりにこれを見た。


繁華街の道端


追記六月三十日(木)
瀧澤邸跡地のマンションは昭和五十三(1978)年に建てられた。松本電鉄の私的整理とは無関係だった。
それとは別に、浅間温泉を縦に走る中央繁華街に「歓迎 浅間温泉」と云ふアーケード型の塔が無くなった。これが寂れたと感じる一番の理由だが、繁華街自体も商店が少なくなった。

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