千七百十二(歌) 二十代前半の若者が長崎から門司港まで往復団体列車を走らせた動画
壬寅(西洋野蛮歴2022)年
三月二十八日(月)
YouTubeは、広告が煩はしく、ここ十ヶ月ほど見なかった。たまたま元銭湯のマンションで仕事があり五十年前のテレビドラマを紹介し、私も観た。これがきっかけとなりYouTubeを再び観るやうになった。そして、スーツさんと云ふ二十代前半の若者が、長崎から門司港まで往復する気動車二両の団体列車を走らせた動画を観た。
この人は年収数千万円のYouTuberで、今回の費用は100万円。この動画を紹介する理由は、会社を設立しその従業員一名と、知り合ひのJR九州職員数名とともに乗車し、常務する運転士と車掌、停車する駅とも良好な関係を築いた。その努力に敬意を表したい。決してカネにものを云はせた企画ではなかった。
使用した車両は、キハ66系と云ふ近郊型の気動車で、今回は急行色に塗装されたものを使用した。キハ66は昭和六十二(1987)年に登場したが、製造費が高く二両単位のためわずかな量数に留まった。その後は安価なキハ40系になった。私が知る時代はここまでで、これ以降はJR分割で関心が消失した。私が気動車に興味を持ったのは、特急型と新系列を除いて全形式が混結可能だったことと、貨物列車の最後尾(車掌車の前)に連結して回送できることだった。

三月二十九日(火)
往路は昼行だが、豪雨の影響で発車が六時間遅れた。ATSの故障で急ブレーキが何回か掛かったが、途中で修理要員が乗り込み修理した。
一両は普通の車両、一両は窓を全開にした。昔のトンネル走行を再現したことになる。昔はトンネルに入るとうるさく、丹那トンネル、笹子トンネル、小仏トンネル(平成元年辺りまで、この三つしか乗車したことが無かった)のやうにそれが長いと、耳の中で残音効果がだんだん高まり、早くトンネルを抜けないかと思ふやうになった。今は冷房完備で、夏に窓を開けることが無くなった。
帰りは夜行で、かつての普通客車列車「ながさき号」とほぼ同じ時刻だ。

三月三十日(水)
動画では、ながさき号が荷物を扱ふため停車時間が長いと解説があった。それで思ひ出したが、昔は荷物車や郵便車を連結するため客車列車が残存する意義があった。
団体列車なので、車掌室に入らせてもらひ撮影した動画もあった。これも思ひ出したことがあり、寝台特急の最後尾から外を眺めることができた。門司(あるいは下関だったか)から博多までしか記憶がないので、途中で切り離して車掌室が別の車両に移ったのかも知れない。
昔は、鹿児島、長崎などホテルに何泊かする旅行に寝台特急を使ふだけではなく、金曜夜に寝台特急で門司か博多まで行き、休暇を取らずに旅行したこともある。今は、電車の寝台特急「出雲」「瀬戸」だけになったが、これは乗車したことが無い。私は寝台列車が好きなのではなく、客車が好きなことが分かる。
気動車は、客車と電車の中間の性格を持つ。動画を観たのは気動車だったためだ。電車だったら見なかったかも知れない。
「ながさき号」をインターネットで検索したところ、JR九州がキハ66、キハ67で行く「リバイバルながさき号の旅」を一回企画した。「スーツさん監修」と書かれてゐる。乗車した人の動画を少し見たところ、盛況だったやうだ。二万三千九百円(子供も同額)で昼食(軽食)、夕食(弁当)、お茶二本、記念乗車証付き。最小催行人員八十人。
門司港駅で五時間弱の待ち時間が大変かな。スーツさんのときは、豪雨で出発が遅れたため、結果として待ち時間が無かった。
門司港は古い駅舎が残る街今も現役嬉し懐かし
(終)

メニューへ戻る 歌(二百五十一の二)へ 歌(二百五十三)へ