千六百九十九(和語の歌) 再度、赤彦の歌を調べた
壬寅(西洋野蛮歴2022)年
三月七日(月)
佳き歌の見逃しがなかったか、「伊藤左千夫・長塚節・島木赤彦集」で赤彦の歌を再度読み直した。すると大正十二年の
ここにして遥けくもあるか夕ぐれてなほ光ある遠山の雪

「遥けくもあるか」が字余りだ。「あ」があるから破調ではないが、この前より赤彦は「あ」「い」「う」「お」とは無関係に字余りを行ふ。世の中が、さう云ふ風潮になったのだらう。それを減点しても美しい。
その次の段落は「左千夫忌」とあり
七月八日第十一回左千夫忌を修す。同年輩者多く会せず。年ゆき人散ずるの思多し。

と詞書があり
我さへや遂に来ざらむ年月のいやさかりゆく奥津城どころ

歌の意味は、私でさへ遂に来なくなるだらう年月の離れるお墓に。赤彦は、子規、左千夫、節の三人と調べが異なると私は見るが、三人の5%の歌が無いことが理由だ。95%を見れば、三人と同じ調べだが、それより赤彦が左千夫を最後まで尊敬したことは立派だ。

三月八日(火)
本日は大正十年の
光さへ身に沁むころとなりにけり時雨にぬれしわが庭の土

「光さへ身に沁む」が美しいが、それは「雨にぬれしわが庭の土」があってのことだ。次は大正十一年の
湯の宿にをりをり降るは五月雨か木(こ)のくれ深く音を立てつつ

「くれ」は暗がりのことで、万葉集の使用例を解説に挙げてある。

三月九日(水)
島木赤彦年譜を読むと、大正四年後半から
歌風の転換を示し、感覚的作風から次第に観照的、沈潜的傾向を強める

とある。早速本文の歌を読まうとすると、大正四年より前を省いてあって、話にならない。「赤彦全集 第一巻」の第一章「馬鈴薯の花以前」は飛ばして、第二章「馬鈴薯の花」を読んでみた。明治四十二年から始まり、表現が五段階評価で三か四のものばかりだ。内容が乏しいと云へば内容が乏しいが。表現を重視するか内容を重視するか、の違ひだ。
ところが明治四十五年から、少しづつ表現が五段階評価でニ以下のものが混ざり始める。左千夫と茂吉の対立が影響したのだらう。

三月十日(木)
昨日は、明治四十五年から少しづつ混ざりはじめると感じた。しかし過去の島木赤彦を特集すべきか迷ふを読み返すと、上高地温泉のあと、番町の家まで無いとある。この違ひを調べたところ、今回は最後の句を重視してゐた。
「思ひたのしむ」「花ふみあそぶ」「夕映も見ゆ」「さびしくありけり」「花にこもれり」

これが明治四十五年になると
「人の音すも」「静かなるかも」「濡れて来にけり」「さ霧流らふ」

美しさが無くなったと云ふより、表現の素直さが無くなった。
念のため、「馬鈴薯の花以前」を読んでみると、四十二年型と四十五年型の中間で、つまり経年変化ではなかった。そんななかで富士見短歌会は、左千夫など二名が富士見に来た。
「芒(すすき)生ひたり」「あはれ国原」「夕雲の下に」

と四十二年型だ。そのときの心境で変はると云へるし、左千夫ほか一名の参加など歌会の雰囲気で変はるとも云へる。
美しい調べの歌が遠くなり描いたことが歌の央(なかば)に
(終)

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