千五百九十(歌) 五冊のうち中村宗一「良寛の偈と正法眼蔵」
辛丑(2021)
八月十ニ日(木)
書籍の一番先頭の「序文 正法眼蔵と良寛詩」は最終行に「昭和五十九年七月  良寛詩集著者 渡辺秀英」とあり、
中村宗一老師は『全訳正法眼蔵』全四巻、『正法眼蔵用語辞典』『正法眼蔵全巻要解』等の大著があり(以下略)

曹洞宗を知る人なら、すごい大学者だ、と驚くところだ。それほど正法眼蔵は難解である。序文は中間で
筆者は菲才を顧みず先年『良寛詩集』を刊行した。中国文学の学徒たる筆者としては学芸を主とし、宗門には殆んどふれず、法華讃等を除いたのも、それらは専家の解明に委ねる意図にほかならなかった。

終盤で
このたび老師は専家の立場より、良寛詩における思想の根底は『正法眼蔵』にありとして、その出展にまでさかのぼり、徹底的の解明を施して頂いたことは、画期的の壮挙であり(以下略)

良寛を 研究または 称賛の 曹洞宗の 僧と尼 此の書籍にて 理解深まる


八月十三日(金)
二番目に著者による「序 私と良寛の出逢い」では
良寛和尚について語るとき、私はいまひとり市井に没入した禅僧、桃水(とうすい)和尚に触れておきたいと思う。

桃水和尚は熊本で出家し、やがて行脚に出て江戸から京都で黄檗山隠元のところで修業し、熊本に帰り印可、嗣法した。二つの寺で七年間住職を務めた後に乞食の群れに入り、弟子が布団を与へても病気の乞食仲間に与へた。良寛と酷似する。序の中盤では
四十歳の時郷里の越後に帰り国上の五合庵、乙子宮、島崎の山本家などの長い間の脱落身心の行実は全く正法眼蔵の進歩退歩であり、仏道そのものの体験であり、(以下略)

これは賛成だ。序の終りには
世の多くの良寛研究者、讃仰者は正法眼蔵の人、正法の詩偈、脱落身心の書とみないで、一般常識・知識の上で人柄を把え詩偈を読み、書を鑑賞しているのである。

さうなった理由は、正法眼蔵が
一部の寺院に伝持されたことと、檀信徒には拝覧も許されぬ等の理由で明治に至るまで一般社会に全くしられていないのも止むを得ぬことであろう。
しかし大正に至って(中略)『正法眼蔵』や道元禅師の研究が行われ今日に至ってようやく『正法眼蔵』が広く親しまれ、眼にふれるようになったのである。

一部の僧しか見ることのできなかった著作が、広く眼に触れるやうになると、原理主義に陥ることがある。

八月十四日(土)
本文は「正法眼蔵と良寛」「良寛の人間像と芸術」など五つの章のあと、第一の巻「禅の心」から第九の巻「良寛の生活風」まで九つの章が続く。
最初から二番目の「良寛の人間像と芸術」は
数年前、私は良寛研究の権威である新潟大学の渡辺秀英先生の御案内により、良寛の遺跡をたずね(中略)良寛記念館の記念品売場の人の話によると、毎日全国からやってくる人々が五、六百人もあるというのである。私は今更のように、今日の良寛ブームに驚いた。

昭和五十六年頃の話である。
「良寛ブーム」の要因がどこにあるのであろうか。(中略)一つは、寂静無為な禅の生活に徹底した真の禅僧良寛に対する随喜、讃仰の心情。他の一つは、良寛の芸術には一般世間の芸術に比し観得、感受し得られない超越的な素朴で、静寂、枯高、脱落、幽玄、禅的な美と清純さがある。


八月十五日(日)
第一の巻から第九の巻については、私は道元とは別の意見を持つところがあるので一つを挙げるに留める。道元のやうな有名な僧と異なる意見を持ってよいと思ってゐるのか、と云はれさうだが、釈尊、達磨、良价、如浄と続く、その先だ。
「詩 第九十三」の
荒村 食を乞い了り        淋しい村の托鉢を了えて
(中略)
香を焚いて 此に安禅す      香を焚き坐禅をする。
我も亦 僧伽子          私もともかく僧の身
豈 空しく流年を渡らんや     なんで空しく時を過ごされよう。

これの解説に
『正法眼蔵』坐禅儀に、「(前略)坐禅は悟りのための手段ではなく、坐禅そのものが仏としての完成された当体なのである。(以下略)」

私は、坐禅が手段との立場だ。(終)

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