千五百六十四(和語の和歌) 【戦国こぼれ話】大坂冬の陣の和睦後、大坂城の惣構・堀の埋め立てたのは徳川家康の謀略だったのか
辛丑(2021)
四月二十ニ日(木)
Yahooニュースに渡邊大門さんの
【戦国こぼれ話】大坂冬の陣の和睦後、大坂城の惣構・堀の埋め立てたのは徳川家康の謀略だったのか

が載った。千五百六十一(「失敗の日本史」上杉景勝の判斷ミスがなければ徳川家康は關ヶ原で負けていた)の余韻がまだ残るので、その延長で考へると、豊臣方は堀を埋め立てたのだから、あとは徳川と仲良くやらなくてはいけなかった。
そもそも徳川と戦をしてはいけなかった。始めるなら落としどころを見つけておくべきだった。その前に徳川の上杉討伐に反対しなければいけなかったし、戦が始まった後は石田三成に加担しなくてはいけなかった。
豊臣は一度や二度ならず、何回も失敗して自滅した。 大門さんは
これまでの通説とは、おおむね次のようなものであろう。
徳川方は外堀のみを埋めるという了解のもとで工事を開始したが、断りもなく内堀の二の丸、三の丸を埋め立てた。(中略)家康が「狸親父」と称される所以である。

これに対し大門さんは
各史料の記述を見ると、大坂城の外堀・内堀を埋め立て、本丸を残すことは、豊臣方と徳川方がともに了解した事項だったことがわかる(『本光国師日記』、「真壁文書」など)。大坂城の惣構・堀の埋め立て自体は、別に謀略ではない。

家康を 悪者にする 筋書きは 黒船が来て 戦起き 島津毛利が 徳川を 落とした後の 作り話だ

(反歌) 豊臣は 織田追ひ落とす 徳川が 同じく落とす 島津毛利も
(反歌) 家康は 秀忠の娘(こ)を 秀頼の 元に送りて 契りを守る
(反歌) 毛利とは 相模の国の 毛利(もり)に住む 後のもうりも 大和詞(やまとことば)だ(終)

編集後記
毛利(もうり)は音読みなので、「島津毛利」は最初「薩摩長門」として長歌を作った。しかし長州藩は周防も領地だったから、「長門と周防」に変へてみた。薩摩藩も日向の一部を領有したから、それを入れると長歌が複雑になる。
それなら「薩摩長門」のままがいいかと思ったが、豊臣、織田が姓なのに、なぜ薩摩長門だけ領地なのか。次に、毛利は音読みとは云へ、相州愛甲郡毛利(もり)を本貫とした。「もり」は大和詞だから、そのまま使用した。
最近、大和詞だけを和歌に使ひ始めたのは、古来の流れであることと、口調を整へるためだ。音読み離れではない。日本は古来、漢字とともに歩んできたのだから、今後もそれで行くのが一番よい。 

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