千五百六十一(和歌) 「失敗の日本史」上杉景勝の判断ミスがなければ徳川家康は関ヶ原で負けていた
辛丑(2021)
四月二十日(火)
Presidentオンラインに
「失敗の日本史」上杉景勝の判断ミスがなければ徳川家康は関ヶ原で負けていた

と云ふ記事が載った。東京大学史料編纂所教授本郷和人さんの執筆で、私も同感だが、上杉が北方から攻めればそもそも関ヶ原で合戦は無かった。
上杉景勝は関ヶ原のときに、二重の失敗をしでかしています。失敗の理由はただひとつ、彼が大局を見極められなかったこと。

これも同感だが、私は上杉景勝が嫌ひだ。上杉謙信は関東管領上杉憲政の養子となった。謙信が急死のあと家督相続が起きた。上杉憲政は和睦交渉のため春日山城に向かったが、景勝側の武士によって討たれた。つまり景勝は祖父殺しだ。
この件について本郷さんが書いた部分ではないが、前文に
上杉景勝は軍神・上杉謙信から家督を相続し、会津120万石を与えられた豊臣五大老の一人だ。だが秀吉の死後は家康の術中にまんまとはまり、(中略)東京大学史学編纂所の本郷和人教授は「失敗の理由はただひとつ、彼が大局を見極められなかったこと」と説明する――。

前文はPresident編集部の執筆だが、家督を相続したのではなく、謙信の養子二人が争ひ、景勝が奪取した。
景勝は 祖父の憲政 殺害し 大不孝者 秀吉が なぜ景勝を 認めたか 不道徳者 同類かばふ

(反歌) 秀吉は 信長の遺児 ないがしろ 側室は多数 甥を殺害

秀吉亡きあと、まず起こったのは石田三成の失脚でした。(中略)秀吉の没後すぐに狙われたのではなく、前田利家が亡くなった直後に狙われた。
そして
三成を離脱させたあとの徳川家康はやりたい放題。戦争のためには相手が必要だということで、最初に目をつけたのが前田家でした。
利家の息子、利長の代になっていた前田家に「謀反の動きあり」と難癖をつけたのですが、前田はすぐさま謝ってきた。

そこで
「大きな戦争」を起こすには、相手も大きくなければなりません。三成のような小物ではダメ。そこで狙われたのが上杉景勝でした。
(中略)
景勝としては、家康の理不尽に耐えて、前田利長のように土下座するべきでした。しかししなかった。これがまず、ひとつめの失敗です。

なぜ豊臣が、徳川に上杉との戦争を許可したのか不思議だ。そこを本郷さんに解説してほしかった。
本郷も 和人さんは 江戸のうち
前文は 編集部筆 江戸のそと


上杉攻撃のために栃木県まで北上したところで、石田三成が立つ。(中略)家康は引き返して大坂に向かうのですが、景勝がふたつめの過ちをおかしたのはここです。反転した家康の軍勢(中略)の背後を突く姿勢を見せなかったのです。
本郷さんに同感。最初に謝って戦争を起こさないか、起きた戦争をきちんと背後から突くか、どちらかやらなければいけなかった。中途半端が一番悪い。
上杉景勝には大局を見極める力がまったくなかったため、(中略)しかし結果として一応生き残ることはできたので、これはこれとして、波乱の時代の生き方として正解だったのかもしれませんが。

本郷さんのこの意見は、絶対に不同意だ。景勝のせいで、西側大名とその家臣など、膨大な数の人たちが不幸になった。
最終で 和人さんは 江戸のそと
(終)

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