千五百二十七(和歌) 「本能寺の変」まとめ
辛丑(2021)
二月十五日(月)
本能寺の変について、二回言及(1、2)したのでまとめてみると、まづ秀吉が予想外の速さで光秀を倒した。だから現代人は、織田家のすべての武将が光秀を倒さうとしたと思ってゐる。
似た例として赤松満祐による将軍暗殺が思ひ浮かぶ。このときは室町幕府が盤石だったため赤松満祐は殺害されたが、織田はまだ天下を握ってはゐないから、ほとんどの武将は自分の領地のことを、第一に考へたはずだ。
秀吉は、毛利と戦闘中で、しかも信長に援軍を要請した。手柄を独り占めせず、源義経のやうな悲劇を避けるためだったとしても、援軍を要請した秀吉が和睦してすぐ戻ってくるとは、誰もが絶対に考へない。判りやすい例を挙げれば、第二次世界大戦中に日米が突然和解し、アメリカがソ連に攻め込むなんて、誰も考へない。秀吉の中国大返しは、それに匹敵する。
しかも山崎の合戦の前に、宣伝を大々的にやったから、沿線の武将が秀吉側になびいた。これが正解ではないか。
日本史に 大逆転は
多数ある 秀吉による
大返し 十位以内に 入る偉業だ
(反歌)
大返し 誉められるのは ここまでで その後は醜い 行為ばかりに
(反歌)
光秀の 本能寺への 進軍は 十位に入る 偉業を含む
二月十六日(火)
現代の秀吉観は、明治維新以降に作られた。山崎の合戦は、信長追悼のためではない。その後、柴田を滅ぼし、織田の遺児たちを冷遇したことで判るやうに、権力を握るためだった。
明治期に 秀吉寄りで
反幕府 さう云ふ歴史が
作られた 頼朝尊氏
悪人で 義貞秀吉 善人と為す
(反歌)
家康も 江戸時代には 権現と 崇め祀られ 維新に至る
秀吉が、織田家の出世頭になったため、二位に転落した光秀が謀反を起こしたとする意見も強い。しかし本能寺の時点で秀吉は序列一位にはなってゐない。山崎の合戦の結果を我々は知るため、間違った先入観に囚はれる。この時点ではまだ光秀のほうが上だ。
毛利との戦は、秀吉が援軍を依頼した時点で、援軍となった光秀などの軍勢は秀吉の配下ではない。
二月十七日(水)
細川藤孝が光秀に味方しなかった理由は、信長から直接命令を受けるか受けないかの違ひだらう。光秀、秀吉、勝家たちは、信長の言動が本願寺との戦ひの後あたりから変になったことを知った。細川藤孝は、光秀を通して信長の命令が来るから、信長が変になったことを知らない。
現代の企業に例へれば、社長ご乱心を取締役以上は知ってゐるのに、部長以下は知らない。そして反乱した取締役たちを非難するやうなものだ。細川藤孝にとり、織田信長のおかげで大名(当時は一万石以上と云ふ制度はなかったが)になれたのだから、織田信長は大恩人だ。
信長の命令で、藤孝の息子と光秀の娘を夫婦にしたが、それも光秀を通して信長への忠義を発揮するためだ。本能寺の変のあと、光秀に加担しなかったのは当然だが、山崎の合戦に秀吉側として加はった訳でもない。出家して最大限の義理を双方に果たした。NHK大河ドラマの安直な脚本には驚く。
二月十八日(木)
織田家に、多数の武将はゐても、家老は一人もゐない。現代風に云へば、支社長はたくさんゐるが、取締役は社長しかゐない。
佐久間信盛は筆頭支社長だが、本社のことに口を出せない。しかも親子ともども追放された。
当時の武将は三国志を読んだと思ふ。司馬仲達は、蜀軍と戦闘を続けることで、その地位を維持できた。そして仲達の子は、曹家を乗っ取り、これを潰した。織田家の敵がゐなくなった時点で、武将たちは使ひ捨てになる。秀吉を含め、信長から直接命令を受ける多くの武将の共通意識ではなかったか。(終)
追記二月二十二日(月)
光秀が本能寺の変を起こした理由が今でも問題になるのは、我々は失敗した歴史を知るからだ。北条が源氏をつぶした理由、足利尊氏が後醍醐天皇に背いた理由が問題にならないのは、成功したからだ。
本能寺の変は大成功だった。しかし秀吉が超大成功を収めたため、失敗みたいに見えてしまふ。光秀が本能寺の変を起こした理由は、成功するからだ。
前線に貼り付く秀吉や勝家が戻ることはあり得ないはずだった。その間に、秀吉や勝家と交渉してもよいし、敵方と交渉してもよい。
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