千五百二十四(和歌) 行動心象日記(日本酒、その後の職安、大河ドラマ、赤羽の貨物列車、新大久保、十条)
辛丑(2021)
二月十二日(金)日本酒
私は焼酎を飲むときに、八倍くらいに薄めて飲む。ほろ酔ひ加減で飲み終はるから、健康によい。私は今まで、毎年の人間ドックで、肝臓に異常値が出たことがない。
更に釈尊の決めた信徒の五戒にも違反しない(かな?)、と思ふ。釈尊時代の酒は果実酒か穀物酒で15度前後だらう。焼酎を八倍に薄めると3度だから合格だ。
釈尊の時代にビールは無かったと思ふが、ビールは4.5度(最近は5.5度など濃いものもある)だから、それより薄い。今風に云へば、検出限界以下だ。
日本酒を何か月間か購入した。これは酒造所と酒米農家を応援するためだが、日本酒はつひ飲みすぎる。と云っても悪酔ひしたり翌日残るほど飲む訳ではないが。
今回再び日本酒購入を始めた理由は、日本酒1に対し水3を飲めばよいのでは、と気付いた。今までは、日本酒1に対し水1だった。
と云ふことで、本日試したところ、飲み過ぎずほろ酔ひ加減でちょうどよかった。
飲酒戒三度の濃さは合格と解釈しつつ 酒造所と酒米農家応援をする
(反歌)
日本酒は源遠き文化にて無害飲酒の方法探る
二月十八日(木)池袋職安
再雇用終了後(行動心象日記四十一の二)に定期券が十日ほど余った。それが終了すれば、東京に行く機会は減るだらう。だから毎日出掛けることにして、一昨日の新宿職安に引き続き、本日は池袋職安に行った。
母は日曜を除きデイセンターに行くが、行く前と帰ってきたあとが心配だ。妻は仕事が数ヶ月先まではあるため、私に再雇用を辞めて家にゐるやう云ふ。それを再雇用終了まで引き延ばして来たが、今度は働いたほうがいいと云ふ。これは正しく、何もしないと老化が進む。そこで、一昨日は新宿職安、今日は池袋職安に行った。
情報はインターネットで検索できるが、一回は行く価値がある。合同面接に申し込んだ。帰りに池袋駅東口通りに宮城ふるさとプラザを見つけた。日本酒300ml瓶四百円弱を買った。家に持ち帰り、夕食のときに飲んだ。
日本酒は銘酒をたまに飲むことが美味しく飲めるこつにして 毎日飲むと銘酒に飽きる
(反歌)
美味くなき普通の酒は夕食の前に毎日飲みても飽きず
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-----------------ここまで「日本酒、その十二」-----------------
二月十九日(金)川口職安
本日は、母がデイセンターから戻った後に神経内科へ通院のため、午前中に川口職安へ行った。三回の職安訪問で、それぞれ用事が発生しそれを済ませた。川口駅西口の半官半民ビル三つに寄った。かつて国立研究機関があり、筑波に移転の後の跡地だ。
川口は駅の東が中心地 西は駅裏寂れ場所 全国にある標準の駅の姿に その後は研究機関が転出し都市化が進み今に繋がる
二月二十日(土)大河ドラマ、赤羽、十条
大河ドラマ「青天を衝け」の第一回目を再放送で観た。主人公が幼児時代にすねて隠れる場面は、つまらないので切らうかと思った。埼玉が舞台のドラマを、埼玉在住の私が見て、つまらないのだから、全国の人たちはさぞつまらないだらう。
牢屋敷に三人の子供が忍び込む場面も、不自然な上につまらないが、過去に一回目で見なくなったことはないため、我慢大会だと思って見続けたところ、囚人は高島秋帆でここから面白くなった。今後この面白さが続くことを願ふ。大河ドラマは毎年、途中からつまらなくなるからだ。
見終った後に、定期券が切れる前の小旅行で、赤羽の稲付城址に行った。今は曹洞宗のお寺がある。太田道灌の木造を祀る
お堂があるが、ガラスが反射して中は見えなかった。道路建設のための測量拒否の貼り紙があちこちの家にある。こんな静かな環境を破壊してはいけない。
喧騒を離れた台地上側に 稲付城址道灌のお堂もありて静かな古刹
次に十条駅で降りた。二車線の踏切道を王子方面に少し歩いたあと、折り返して踏切を渡った。駅の北口への道路は工事中で通行止めだ。姥が橋寄りから駅に向かふと、大きなアーケード商店街がある。ここを少し歩いた。蒸気機関車の車輪があり、十条駅の式年記念に東京北鉄道管理局が設置した。
十条に蒸気機関車車輪あり国鉄駅の式年記念
二月二十一日(日)新大久保、赤羽の貨物列車
昨日赤羽に行ったのは、埼京線の窓から見える唐風の三門を見に行くためだった。まづ稲付城址を見て、念のため十条方向にも50m歩いて見つからないので、そのまま電車に乗って次の目的地に向かった。
本日は予め地図で調べた。赤羽の前に、新大久保に行った。かつて新大久保で降りて会社まで歩くことが多かったので、中華、タイ、ベトナム、ネパールなどの店が並ぶ飲食街を歩いた。
百人町アジアの店が続く道旅行気分の飲食街に
赤羽では、唐風の三門を見た。形状から真言宗と予想したが合ってゐた。昭和五十年頃は赤色だったが、今は目立たない色になった。参道入口に「稲付の餅つき唄」と道観山稲荷講の説明板がある。
お寺を過ぎて埼京線との交差の先で、昔はここに貨物の引き込み線と部品工場があったのに、と感慨深かった。部品工場の跡地と思はれる北区立老人センターの裏まで往復の後、旧家で老人が肥料の袋みたいなものを片付けるので、お話を伺った。
引き込み線の先は、保線工夫の研修場だったさうだ。物を作ってはゐなかった(私が工場と質問したので)。線路の反対側の木造は国鉄の官舎で、小学校の同級生がゐた。
前に地図で、木造は鉄道学園だと思ってきた。しかし官舎だった。
赤羽は貨物の上下東北と赤羽線に分岐して そのあと長い待避線兼ねて貨物の入れ替へと本線機能双方が持つ
(反歌)
本線で入れ換へ作業をするときはもう一方で都心に向かふ
(反歌)
赤羽の南側での引き込みは保線の為の研修施設
(反歌)
赤羽は北にも引き込み跡ありて旧陸軍の施設へ向かふ
南の引き込み線は昭和五十年頃に駅の貨物扱ひが廃止になると同時に廃止された。北はおそらく昭和四十年頃に廃止された。
長歌の内容は貴重なので解説をすると赤羽から、東北貨物線(今の湘南新宿ライン)と、赤羽線(埼京線)の二つに分岐した。どちらも池袋に向かふのになぜ二つになるのか疑問だったが、赤羽で入れ換へをするときに東北貨物線か赤羽線貨物のどちらかで長時間停車する。その間の貨物列車は、空いた本線を通過した。
深夜は、多くの貨物列車が赤羽線を経由した。つまり赤羽線の容量の問題で、赤羽駅の配線を決めたのが正解だ。もし板橋停車以外の貨物列車を東北貨物線経由にするなら(昼間はこの状態だが)、赤羽駅は本線と側線にして、そのあと赤羽線を分岐させた。(終)
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