千五百十六 (和歌)1.止観について、2.動画鑑賞記
庚子西暦元日後(2021)
閏十一月二十三日(土)(2021.1.23)
止観とは、止(心を静める)と観(智慧を働かせる)のことだ。曹洞宗や臨済宗で、止(読経、座禅、作務)と観(経典や先師の著作の学習)は括弧内が該当する。臨済宗の看話禅は止に含めた。
南伝仏道では止(読経、サマタ瞑想)と観(ヴィパッサナ瞑想、経典や先師の著作の学習)だ。
以上は、止と観を無理に分けなければいけない場合の話で、本来は止と観を分けることができない。或いは、性格によって止と観のどちらに重点を置くかが異なる。或いは、そのときの心の状態によって、止と観のどちらを行ふか変はる。或いは、観を行ふときにも、止をまづ行ふときと、最初から観でよいときがある。
この問題にこだはる理由は、私自身は心を静めることが優先だ。人によっては心の活性化が必要で、観を行ふべき人も多い。
止と観は 性格により
選択が 大きく変はるは 体験による
閏十一月二十四日(日)
止観は天台宗の用語だ。Youtubeで天台宗の話を何人か見た。(1)天台大師の小止観、摩訶止観と、大乗としての諸仏に祈ることの接点は何か、(2)中国の天台宗と、日本の天台宗の違ひは何か、(3)当時の中国に天台宗以外は何があって(禅宗、真言宗以外に)天台宗との共通点と相違点。
以上の三つは、ぜひ碩学の方に解決をお願ひしたい。
天台は 鎌倉時代に
現れた 末世の教へと
異なりて それより前の 教理を残す
(反歌)
天台と その周辺と それ以前 これらは貴重な 教理と史跡
閏十一月二十五日(月)
同じくYoutubeで、息に集中して体に集中するのが止、雑念が生じそれに気づいて精神に集中するときが観と云ふ解説があった。全体ではこの定義に賛成。つまり止と観は、別のものではない。
止と観は 分かれたものに
非ずして 同時に起こる
こともあり 同時に修行 することもある
閏十一月二十六日(火)
私自身は、瞑想技術に特化した論は好きではなかった。光に集中、色に集中、形に集中などだ。しかし一昨日に述べたやうに、心を静めるべき人と心を活性化させるべき人がゐることを考へると、これら瞑想技術に合ふ人も多いことに気付いた。
長く続いた方法には、続いた理由がある。それを捨てたら原理主義になってしまふ。
閏十一月二十七日(水)
Youtubeで、天台宗に始まり止観・瞑想・禅について、幾つかの宗派の話を聴いた。話しながら体を左右や前後に動かす人が目立つ。これはよくない。人と対面したときに体を動かすことはしない。動画も画面の向かうに人がゐるつもりで話してほしい。
お坊さんYoutuberが七人くらい集団で出演したものは、馬鹿馬鹿しいので一人目の自己紹介で切った。普通に話をすればよいのに、なぜ何々でーすといったふざけた話し方をするのか。
ユーチューブ 出家が在家の ふりはいけない
出家者が 芸能人の ふりはいけない
お勧めは「北の寺から」だ。浄土宗西山禅林寺派の住職が説法をされる。真摯な姿に感心する。
閏十一月二十八日(木)
真宗系の『現代仏教塾5「初期仏教の輪廻思想」対談:<無記説>について』は、無記説は釈尊が無回答なのではなく、輪廻説は前提だと話され、私もこの説に賛成だが、それとは別に解脱すれば輪廻とは無関係若しくは超越したところを無記と呼んだとすべきだと思ふ。東洋大学准教授なる人は、中村元説に反対をしたいようだ。
『現代仏教塾4「初期仏教の輪廻思想」現代の仏教学者の説』は、更にひどい。中村説(原始仏教が複雑化した)に反対するが、世の中は仏道に限らず、すべてのものが時間の経過とともに学説が複雑化する。
外から圧力があったときは単純化することもあるが、一般に初期の仏道から部派に至る時代は、外から圧力はなく、複雑化の時期だと考へるべきだ。
仏道が 部派に分かれた ことこそが 複雑化した 証明となる
仏道で 部派から更に大乗が 分かれたことも 複雑の道(終)
追記閏十一月三十一日(日)
本日Youtubeを観てゐて、「北の寺から」が優れる理由が判った。住職の長男は、自閉症と知的障害で養護学校に通学してゐた。自宅であるお寺では、住職に習ひ読経も或る程度できるやうになり、ある日お風呂場で発作を起こしてお湯の中に倒れ救急車で運ばれたが一ヶ月後に亡くなった。
四十九日を迎へた日のショート法話を観て判った。悲しみを乗り越えた体験があるから、Youtube視聴者の胸に響くのだった。
固定思想(二百六十一の二)へ
固定思想(兼、二百六十三の一)へ
メニューへ戻る
和歌(五十六)へ
和歌(五十八)へ