千四百八十四 (和歌)最も優れた県歌三つ「秋田県民歌」「信濃の国」「埼玉県歌」
庚子(仏歴2563/64年、西暦2020、ヒジュラ歴1441/42年)
十月二十三日(金)
今から十年ほど前に、全国の県歌を聴き、最も優れた県歌は三つあり、北から「秋田県民歌」「信濃の国」「埼玉県歌」だと思った。このときは、個人の方のページに県歌のURLが載り、それをクリックした。しかしリンク切れや、リンクの無い県もあり、個々の県を検索はしたものの、すべての都道府県を聴いた訳ではなかった。
今回この特集を組むに当り、十年ぶりに再度全国を聴き、今回もすべてではなかったが、最も優れた県歌は前回と同じでこの三つだ。それらの紹介と、優れる理由を、これから述べたい。
全国の 都道府県の
特長を 示す県歌は
全国が 豊かな生活 等しく詠ふ
(反歌)首都圏の 異常膨張 防ぐため すべての県歌 大いに歌はう
(反歌)終戦で 県歌の質が 落ちたので 事実を踏まへ 子孫の世代へ
十月二十二日(木)
「秋田県民歌」は、昭和五(1930)年に作られた。「秀麗無比なる 鳥海山よ」で始まる名文は、戦前の作が戦後より優れることを語る。しかし戦前にも欠点はある。それが四番の「錦旗を護りし 戊辰の栄は」に現れる。あの当時のことはWikipediaによれば
東征大総督府は(中略)久保田藩にも庄内討伐を命じた。/この命令を受けて久保田藩は亀田藩、本荘藩、(中略)弘前藩、新庄藩などと共同し(中略)庄内藩を攻めようとした。ただ、庄内藩が討伐対象とされる経緯に疑問を持ち、薩摩藩の私怨と考える兵士も多く、士気はふるわなかった。
由利地区に攻勢にでた連合軍に対し、庄内藩はこれをいち早く察知して閏4月20日(1868年6月10日)に反撃してきた。そのため、久保田連合軍は総崩れとなった。
薩長のやり方が正しかったかどうかは、昭和二十年に結論が出た。だから戦後は二番までしか歌はない。県内には薩長から朝敵とされた亀田藩や盛岡藩の所領も含まれるから、当然のことだ。「秋田県民歌」は、曲が美しい。
秋田県 県民の歌は
美しい 旋律とともに
美文調 歌詞も優れて 同率1位
(反歌)好きな句は 田沢と共に 詩の国と 霊気をこめて 斧の音響かぬ
十月二十四日(土)
「信濃の国」は、明治三十三(1900)年に作られた。曲と歌詞が両方とも優れ、非の打ち所がない。強いて挙げれば、春台太宰先生と象山佐久間先生は、姓と名を入れ替へないほうが今の感覚に合ふ。しかし姓を前に持ってきても字数は合ふから、これは作詞者が意図して行ったことだ。つまり明治初期は、この語感のほうが良かったのだらう。
県の歌 信濃の国は
戦前に 三大県歌と
呼ばれたが 戦後新たに
県民歌 作ったものの
よみがへる 空もあかるく
新しさ こんな歌詞では
無視されて 廃止再び 信濃の国に
(反歌)終戦後 作られた歌は 建前が 空踊りする 思想も同じ
反歌に「思想も同じ」と書いた。戦後の思想は、一旦疑って、無害なもののみを使用しないと、社会が崩壊する。
みこもかる 信濃の国の
県歌には 境連ねる
十州と 四つの平と
山と川 名所と偉人
網羅する 作曲優れ 名文名歌
(反歌)山脈で 孤立の平を 繋ぐもの 道と鉄路と 信濃の国ぞ
十月二十五日(日)
「埼玉県歌」は昭和四十年に作られた。昭和二十年代のマッカーサー洗脳効果が薄れ、昭和三十八年辺りからの高度経済成長の悪影響は受けず、昭和六十年辺りからの終戦直後に成人した人たちによる社会破壊効果も少ない、貴重な時期だった。だから歌詞も「古き伝統 新しき 生命(いのち)をこめて」と偏向がない。
曲は美しいが、歌詞で五十年間、気になって来たことが二つある。一つは「風もみどりの むさし野よ」だ。「よ」で終了する歌詞は好きではない。しかし十年前「秋田県民歌」に「鳥海山よ」「男鹿半島よ」があるのを知り、昔の語感なのかと、納得した。
もう一つは四番の「北に大利根、荒川は、南をめぐり」だ。「北に大利根、南に」にしないと非対象になる。しかし「北に大利根、南には、荒川めぐり」だと軽薄になる。「北に大利根、(ここに五文字)、南に荒川」なら良いが、そもそも荒川は南端ではない。「北に大利根、荒川は県央めぐり」がよいのではないだらうか。
埼玉は 終戦直後に
作らずに 二十年後に
県の歌 作ったことが 秀作を生む
(反歌)埼玉が 県歌を作った 頃はまだ 県南含め ほとんど田畑
昭和四十年は、県南だけではない。東京も、足立区、葛飾区、江戸川区、世田谷区などは田畑が広がった。(終)
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