千四百八十三 (和歌)旅行後に借りた三冊の書籍
庚子(仏歴2563/64年、西暦2020、ヒジュラ歴1441/42年)
十月二十二日(木)
東日本大回り旅行では、象潟と芭蕉と奥羽越列藩同盟が印象に残った。そこでこれらの本を図書館から借りた。まづは「江戸時代 人づくり風土記 5秋田」で、その第一章第七節に「名勝"象潟"と新田開発」がある。
象潟は(中略)たくさんの人びとが訪れ、宿泊し(中略)財布の紐がゆるむ所であったのです。(中略)領主六郷氏にとっては、景観の保持こそが最大の関心事でした。
六郷氏とは本荘藩二万石の外様大名。藩内最大の観光地を保護した。象潟の島々での畑作の禁止、島々への植林、蚶満寺(かんまんじ)への管理申し付け、潟船以外の乗り入れ制限、新田開発及び石垣作りの禁止が、八十年に亘って次々に出された。
文化元年(1804)の大地震により、最大1.8m、北部で1.3m、南部で1.25m隆起した。水深2.2mだから、泥を撤去すれば水は復活したのではないか。しかし文化三年乃至八年に、新田開発が開始された。
蚶満寺の覚林和尚は、藩に対し工事を中止する願書を提出し、更に閑院宮家の祈願所になった。覚林は宮家の呼び出しで上京し、翌年藩の要望で寺に帰った。しかし身の危険を感じて密かに脱出し、江戸で反対運動を続けた。その二年後、藩に捕らへられ本荘に護送。四年後に獄死した。
彼の九年間にわたる反対運動の結果、島を切り崩す形での開田は中止されました。
今は、米が余る時代だ。田圃は県が買ひ上げ、再び海水が入る土地にしたらどうか。まづは水田に海水を張った状態にするだけでも、観光資源は蘇る。
出羽が海 風光明媚な
名勝は 文化元年
大地震 新田開発
島々を 切り崩す危機 僧侶が防ぐ
(反歌)
覚林が 象潟を死守 島々は 今に昔の 面影残す
十月二十三日(金)
芭蕉については「俳人芭蕉・蕪村・一茶を知ろう」で、絵入りで字が大きく、高校生向けかと思ったが、内容は高度だ。読み終って印象に残ったのは、芭蕉が江戸に出て
魚商杉山杉風が門人となりました。
更に芭蕉と思はれる絵が描いてあり、その人が語るには
杉風は幕府に魚をおさめる魚問屋の主人。
なるほど杉風の支へがあって芭蕉が世に出た。
「蚤虱馬の尿する枕もと」について
枕もとで馬がおしっこをするような宿である。
これについて、この本の前に読んだ書籍では、馬のおしっこが聴こえたとあり、こちらが正しいだらう。その本を紹介せず返却したことが惜しまれる。その本は「五月雨をあつめて早し最上川」について、元は「五月雨をあつめてすゞし最上川」だったとあった。これも貴重な情報だ。
この本も芭蕉の推敲について書いてある。一生に作った句の数について
芭蕉は約千句、蕪村が約三千句、そして一茶は約二万句を作っています。(中略)芭蕉は句を完成させるとき、何度も推敲(括弧内略)を重ねるという形をとっていました。
これが名句の多い理由だ。
推敲を 重ねる度に
文芸は 磨きが掛かり 秀作となる
十月二十四日(土)
奥羽越列藩同盟では、戦記を読み始めたが、すぐ中止した。私は奥羽越列藩同盟を支持する。支持する側が負ける話に興味はない。結果を受け入れるだけだ。
小説も読んだ。これは八割方読んだが、登場人物の描写はあくまで作者の想像だ。人物像を固定することを避けるため、重視はしなかった。
倒幕は 坂本龍馬が
死んだ後 権力を取る
ことだけを 目的とする
連中が ごり押し進め 戦乱になる
(反歌)戦乱を 抑へるための 請願も 無視して戦火 薩長悪し(終)
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