千四百六十一 「サラダ記念日」ほんのり称賛から、全面批判へ
庚子(仏歴2563/64年、西暦2020、ヒジュラ歴1441/42年)
八月三十一日(月)
(その一)では、ほんのり称賛から批判へ、急転した。その理由は、恋愛物で将来は結婚するのだらうと多くの読者が考へ書籍を購入し、ベストセラーになった。
それなのに、三回恋愛遊びを繰り返し、父親を公表せずシングルマザーになった。ほんのり称賛した短歌「まだあるか信じたいもの欲しいもの砂地に並んで寝そべっている」は、批判対象になった。
丁度、「水戸黄門」や「遠山の金さん」で、悪代官がお友だちを優遇して悪事を重ねる。最後は裁かれるだらうと多くの視聴者が期待して観たところ、「水戸黄門」や「遠山の金さん」まで悪代官側に寝返ったやうなものだ。
蜜蜂は女王蜂と働き蜂が分化し、冬はどちらも春まで生き延びる。足長蜂と雀蜂は、女王蜂と働き蜂が分化するところは蜜蜂と同じだが、冬は女王蜂しか生きない。もし異常気象で、冬が無くなったらどうなるだらうか。独立する働き蜂が現れて勝手に産卵を始めたり(働き蜂は雌なので、女王蜂がゐないと産卵を始める)大変なことになる。
人間が家族単位で生活するのは、経済が不況つまり越冬のためだ。ここ40年ほど日本はバブルと円高で、生活が豊かになり過ぎた。しかしそれは地球温暖化と引き換へだから、永続はできない。
シングルマザーはそれぞれ事情があるから、普通の家族と同じやうに社会が温かく見守るべきだ。しかし俵さんみたいな確信犯は別だ。とは云へ、子供に罪はないから立派に育ってほしい。

九月一日(火)
(その一)で「ゴアという町の祭りを知りたけれどここはそらみつ大和の国ぞ」を批判した。その内容は、「そらみつ」を付けると、(2)大和地方、(3)大和朝廷の支配地域、のどちらかになる。しかも「大和の国」と言った場合は、通常は(2)だ。そして、枕詞を付けたことで情報量が減少する。ここで批判と正反対の短歌を、古今和歌集から見つけた。
敷島の大和にはあらぬ唐衣頃も経ずして逢ふよしもがな

まづ短歌には、描写型、俳句型、川柳型、感嘆型、言葉遊び型などがある。この短歌は言葉遊び型だから、「唐衣」が「頃も」の序詞、「大和にはあらぬ」が「唐衣」の序詞、「敷島の」が「大和」の枕詞で、情報量は少ない。そこが美しさだ。
「敷島の大和」は「唐」と対比するから我が国の意味だが、民族意識が生じたのは近代になってからだから、(1)現代の日本、ではなく、(3)大和朝廷の支配地域、と考へるべきだ。
つまり、この短歌は、俵さんが「そらみつ大和の国」を用ゐてよいことの前例にはならない。

九月二日(水)
歌人の秋葉四郎さんが著書「作歌のすすめ」で
短歌には健康体質があるということを言いましたが、(中略)現代短歌の作者にはさまざまな人がいて(中略)思わず赤面するような作品をこれみよがしに発表している作者もいます。そういう歌人を私は密かに露出症症候群歌人と言っています(以下略)

歌人に限らず、マスコミや学者などにも社会を破壊することに熱中する人たちがゐる。私も密かにさういふ人たちを、文化破壊永続不能人と呼んでゐる。その人はよくても、子や孫の世代は永続不可能だ。
短歌は何を歌おうと自由でありますが、例えば万葉集の恋の歌のようにおおらかで、健康的でなくてはなりますまい。(中略)「詩」は人類にとって必要欠くことのできないものとして起源しました。(中略)ところが、ヴァレリーによれば、西洋では十九世紀にその詩の本質的な要素が絶え、人にとって必要な「詩」から無用の文学になったと言われています。

これも同感だ。
短歌が無償の文学であるということも健康体質の一つに数えることができます。(中略)無償であるがゆえに短歌は文学として純粋であり続けることができているのであります。

これも同感だ。講演、選者、著書で無償ではない人も、無償の多数の歌人たちのために貴重な存在だ。それに比べて俵さんは、雑誌に掲載を続け、単行本にもなって、ベストセラーにもなった。今思へば、マスコミバブルだった。
私は近年、マスコミバブルと云ふ言葉をときどき使用する。マスコミが取り上げると或る程度名が知られ、他のマスコミも取り上げる。そんなことを繰り返すうちに、一瞬の有名人になる。しかしバブルが弾けると、何も残らない。

九月五日(土)
文語を用ゐたときは、正仮名遣ひを使ふことが原則だが、慣用句で知らずに文語を使ふこともあるし、作者の意思を尊重したい。しかし醜い使ひ方は駄目だ。例へば
改札に君の姿が見えるまで時間の積み木を組み立てていん

これはひどすぎる。

九月六日(日)
芸術は、作者の私生活とは無関係に、作品だけを鑑賞する方法がある。それとは別に、例へば芥川龍之介が自殺したことを知った上で龍之介の作品を鑑賞すれば、新たな発見がある場合もある。
俵さんの作品は、これら二つとは異なり、私生活の恋愛体験を赤裸々に描いたものだから、作品は鑑賞して私生活に触れないと、それは片手落ちになる。
社会現象として俵さんの作品が原因で、シングルマザーや離婚が多くなったのなら、俵さんの作品は有害だ。俵さんがあのやうな人生を選択できたのは、雑誌への連載や書籍のベストセラーが大きい。一番の責任は、マスコミにある。(終)

(その一)、和歌八の一和歌九

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