千四百六十一 「サラダ記念日」を正しく批評しないと、大変なことになる
庚子(仏歴2563/64年、西暦2020、ヒジュラ歴1441/42年)
八月二十二日(土)
和歌の特集を幾つか組んだが、早くも(その二)で長歌に軸足を移した。そのあと俵万智さんの「サラダ記念日」を読んだ。
長歌に軸足を移した後に「サラダ記念日」を読んだ理由は、それまでに読んだ書籍の中に、俵さんを創始者として新しい短歌が出てきたとするものがあった。「新しい短歌」を見る限り、俵さんの短歌とは別系統だ。私自身は、新しい短歌は短歌ではないとする。これは俵さんへの誉め言葉だ。俵さんの作は短歌なのだから。

八月二十三日(日)
書籍「サラダ記念日」がベストセラーになった理由は、恋愛物だ。心情にほんのりと温かい気持ちになるとともに、この恋愛がどうなるのか物語への期待もある。
だから俵さんの短歌そのものに期待してはいけない。とは云へ優れた作品もある。「八月の朝」なら
まだあるか信じたいもの欲しいもの砂地に並んで寝そべっている

多くの人が取りあげる「寒いね」の一首は、「 」を使ってはいけないから不合格。それより多くの人が俵さんの短歌に感じるであらう一番の問題は、恋人だかに「君」を使ってよいのか。

八月二十七日(木)
それと似た話で、自分のことを「吾(あ)」と呼ぶなら、文語体にすべきだ。「八月の朝」二首目の「間(あわい)」も同じだ。
私が和歌に口語体を使ふ一つの理由に、現代人は「けり」「なり」「せり」「をる」などを字数合はせに使ひすぎる。短歌は三十一文字しかないのに、これらを使ふと情報が減少する。
俵さんの作品は、口語なのにこれらが多い。「野球ゲーム」の章だと
売られおる、なりけり、たるべし、つけおり、望めり、過ごせり、しまえり


八月二十八日(金)
その次の「朝のネクタイ」以降の章は、飽きて読む気にならなかった。六章分を飛ばして「サラダ記念日」の章だけ読んだ。
ゴアという町の祭りを知りたけれどここはそらみつ大和の国ぞ

大和には、(1)現代の日本、(2)大和地方、(3)大和朝廷の支配地域、の三つがある。
「そらみつ」を付けたときは、(2)または(3)の意味で、(1)ではない。近代の和歌で(1)の例も探せばあるだらうが、避けたほうがいい。更に、「大和の国」と云ふと、(2)のことだ。特殊な例に(3)がある。
この一首は、日本の祭りはゴアよりすごいと詠ったものではない。この一首だけならさう読めなくもないが、他の多数の短歌から類推してそれはない。だから、大和に枕詞をつけてはいけない。特異感を狙ったのだらうが、三十一文字の情報が少なくなり過ぎる。

八月二十九日(土)
短歌は本来、作者の想ひが満ちたもので、どんな作品であっても貴重だ。しかし創作を続けるうちに、いい評価を得ることが目的になってしまふ。俵さんだと、雑誌に掲載を続けたり、受賞することが目的になってしまふ。そんな時期の作品群だ。
書籍「サラダ記念日」がベストセラーになった理由は先日書いた。普通の人にとり、結婚せず子供を育てることは経済的に困難を伴ふ。俵さんはベストセラーになったので、印税がそれを可能にした。
俵さんに一番不信感を持つのは、東北地方太平洋沖地震のときの行動だ。このころ俵さんは仙台に住んでゐた。地震発生時は東京にゐて、五日後に山形空港経由で仙台に帰れた。親と一人息子がゐるからだ。ここまでは問題ない。
しかし仙台に戻ったあと、少しでも遠くへと云ふことで、山形空港からたまたま切符を取れた那覇に移動した。そして沖縄県に引っ越した。
この話を読んで、特権意識丸出しの醜い行動だと思った。あのとき私の知人で外資系コンピュータ会社に昔、勤務したことのある首都圏に住む日本人が、関西に逃げた。数日で首都圏に戻ってきたが、外資系に勤めるとああなるのかと驚いた。
私は、多くの人を見捨てて自分だけ助からうとは思はない。しかも数日ならまだしも、移住するなんてカネに物を云はせた特権意識だ。

八月三十日(日)
俵さんの「三十一文字のパレット2 記憶の色」と云ふ書籍を図書館から借りた。この本はかなり不満だ。開架の本棚から手に取り読んだところ、短歌と文章から成るので、俵さんの作った短歌とその背景を述べたものだと思った。読むと、俵さんの気に入った他人の短歌を選び、感想を書いたものだ。
とかく賞を取ると、偉くなった気分になり、世界の笑ひ物となるやうな駄文を書く人がゐる(これは俵さんのことではなく、過去に取り上げた)。作品が受賞したのに、本人が受賞したと勘違ひして「私の書いたものは価値がある」と思ってしまふからだ。俵さんは
しのびかに遊女が飼へるすず虫を殺してひとりかへる朝明け  若山牧水

を引用して
弱者という意味では、すず虫と遊女は、通いあうところがある。(中略)それでは、殺した人間のほうが強者かというと、そうでもない。

俵さんは、重大なすり替へをした。すず虫や遊女は若山牧水を殺さなかったのに、若山牧水はすず虫を殺した。俵さんがすべきは、3者を同一視するのではなく、この短歌の背景を調べて解説することだった。
ただ妙に一人でゐたいのはカーテンレールのやうな陰影を持つからだ (作者名略)

文章はその人の人格だ。だから自称有名人の作を除いて批判したりしない。この作品は私と感性が異なるが、創作の熱意は評価し、取り上げなければ済む。だから作者名は省略した。ところが俵さんが取りあげたとなると、事情は異なる。
俵さんは、口語に文語を混ぜて字数合はせをすることはあるものの、字数は崩さない。そこが新短歌との違ひだった。ところがこの作品を取り上げたことにより、俵さんを新短歌の出発点とする、或る歌人の主張は正しかった。だとすれば、俵さんの作品は短歌ではない。
「虚像の家族」の章では
家族とふがんじがらめの明るさの溢れかへつてファミリーレストラン (作者名略)

字余り字足らずは、全体に悪影響を及ぼすものと及ぼさないものがある。ファミリーレストランは悪影響を及ぼす。二文字の字余りの上に、カタカナが連続し過ぎる。読む人の九割はそのことが気になる。それなのに俵さんは、それには触れず
ファミリーレストランという名の舞台で、人々が、ほどほどの幸せを演じている。(中略)掲出歌も、そんな違和感を歌ったものだろう。今どきの家族は、月に一度ぐらいはファミリーレストランでお食事をしなくっちゃ・・・・・情報や世相に忠実な人々を「がんじがらめ」という言葉が厳しくとらえている。

まづ月に一度以上、家族でファミリーレストランに行く人がどのくらいゐるだらうか。我が家では、子供が生まれてから下の子が二十歳になるまでに、日本国内では5回程度だらうか。四年に一回だ。
日本国内と書いたのは、下の子が生まれる前に家族そろってアメリカに十ヶ月出張した。このときは百回くらい三人そろってファミリーレストランで食事をした。
日本のファミリーレストランは、アメリカの猿真似だ。批判するなら、そのことを批判すべきだ。
私は結婚前の二十代のころ、会社の車を運転して客先に行くことがよくあった。昼食は途中の大きな道路沿ひのファミリーレストランで百回くらい食べた。ファミリーレストランは夕方の家族向けだけではなく、昼食時の近隣事業所のサラリーマンやOL、更には車の運転者向けでもあった。俵さんはさういふことを知らないらしい。
つまり、私はファミリーレストランに極めて詳しい。しかし家族で行ったのは五回程度だ。がんじがらめに明るい家族の百倍は、本当にファミリーレストランで明るい家族がゐる。本当に明るい家族の数倍乃至百倍は、数年に一回しか行かない家族がある。
そもそも俵さんは未婚で、子が一人。子の父親が誰かは公表しない。母子家庭にはいろいろな事情があるから、差別することなく普通の家庭と同じに扱ふべきだ。しかし俵さんは意図して結婚せず、恋愛文章は書き続けた。普通の家族とは異なる。そんな人が、普通の家族を批判してはいけない。
最後に公立図書館に一言。賞をもらった人の書籍を安直に購入してはいけない。著者名ではなく、内容で購入しないと、税金が無駄になる。

前、和歌七の三(その二)、和歌八の二

メニューへ戻る 前へ (その二)へ