千四百二十九 宗教には、性格が悪くなるものと、良くなるものがある
庚子(仏歴2563/64年、西暦2020、ヒジュラ歴1441/42年)
四月十六日(木)1.(僧X信仰)編
宗教には、性格が悪くなるものと、良くなるものがある。昭和四十五年以降の僧X信仰は性格が悪くなることを指摘したが、それでは真面目に信仰してきた人たちが救はれないない。そこで例外を見つけ出して、例外に入れば性格が悪くはならないことを示してきた。
ここで昭和四十五年以降の僧X信仰が性格を悪くする理由を、これまでとは別の角度から述べると、連帯社会と個人社会の不均衡が原因である。
僧Xの時代は飢饉疫癘内乱元寇があったから、社会全体がX経を信じないと解決しないとするものだった。これは江戸時代末期の黒船到来から後も同じで、アジアではタイ、中国、日本以外は植民地だった。だから僧X信仰は人気があった。昭和20年以降も食糧不足や貧乏が続いたから、その流れは昭和四十五年まで続いた。
社会全体がX経を信じないと解決しないとなると、布教する側は布教される側に頼み込んででも信仰してもらふことになる。
一方で、昭和四十五年以降のやうに社会全体への布教を放棄したのに活動を続けると、布教する側は布教される側を見下すやうになる。
だから昭和四十五年以降は、当てのない布教を続けてはいけない。そればかりか、僧Xの教へは社会全体をX経にするものだから、昭和四十五年以降は信仰してもいけない。それでは真面目に信仰する人たちが救はれないので、例外に入ることを勧めて来た。

四月十八日(土)2.(心の動きを観察)編
自身の心の動きを観察すると、性格がよくなる。人間の精神には欠陥がたくさんある。自分の心を観察すれば、それが現れたとき判るからだ。だから性格がよくなる。
とは云へ、それには心の安定が必要だ。心が安定しないと、心の動きが判らない。騒音の中では微音が聴こえないのと同じだ。
日本には曹洞宗と臨済宗がある。これらは心を落ち着かせることができる。その先はどうか。道元は非思量と云った。観察は思量ではない。そればかりか思量が観察を妨害する。つまり曹洞宗と観察は、矛盾しない。臨済宗も同じだらう。

四月十九日(日)3.(宗教が信徒に押し付けてはいけないもの)編
宗教は、宗教以外を信徒に押し付けてはいけない。信徒は一人一人嗜好が違ふからだ。特に政治を押し付けてはいけない。XX会の第二代会長戸田城聖は(公明党が無かった時代に)、XX会員の国会議員が自民党から共産党まで出るだらうと構想した。これは、理に適ったものだった。
XX会が昭和四十五年に大規模布教を停止してから、公明党は目的がなくなった。この際、公明党を発展的に解散し、各議員は志向に合った政党に移動するとよい。これはXX会にとって、実に有利な方法だ。
各議員を推薦することで、XX会は各政党に影響を及ぼすことができる。会員の子どもは多くが活動家にはならないが、それは公明党を支持する人以外は活動家にならないためだ。今後はなれる。こんな有利な方法を公表する理由は、公明党に安倍を支へることを中止してほしいためだ。

四月二十日(月)4.(性格とそのときの状況に合った観察)編
一昨日、心を観察すると性格がよくなると述べたが、原始の仏道経典には、心を含めて四つの方法が書かれてゐる。
身念処(身体の不浄を観察)
受念処(目、耳など感覚作用を観察)
心念処(心の動きを観察)
法念処(苦、無常、無我を観察)
性格に合った方法を選択することが、経典の注釈書には書かれてゐるが、科学が進んだ現代では、そのときの状況に応じて選択することも可能だ。
今は交感神経が優位なのか、それとも副交感神経が優位なのか。心を落ち着かせるべきか、それとも活性化するべきか。一つの方法か複数の方法かを選ぶこともできる。
観察は瞑想のときに行ふことも、普段の生活の中で発生することもある。私自身は、受念処と心念処を行ひ、法念処を稀に行ふ。身念処はまったく行はない。
ここで法念処の苦について解説すると、現代のやうに化石燃料大量消費の時代にあっては、人生は楽だがこれを苦だとすることが苦だ。或いは化石燃料大量消費で地球が滅びることに気付くことが苦だ。

四月二十二日(水)5.(大乗の経典にも嗜好)編
人には合ふ文章がある。経典も同じで、人それぞれ合ふ経典を見つけ、それを受持するのがよい。日本の仏道では、天台宗まではこの流れだった。鎌倉時代に入り、X経や浄土経典など特定のものに特化する宗派が現れたが、江戸時代の初期までは、個人で宗派を選ぶことができた。墓檀家制度は、江戸時代の残存物だ。

四月二十五日(土)6.(僧X信仰にご利益はない)編
僧X信仰者は、マインドコントロールされる比率が高い。ご利益があると思ひ込むことだ。しかし僧Xを信仰しても、全体が信者にならない限りご利益は無い。(ここで全体が信者とは、時の権力者が信者になればいいのか、国全体が信者にならなくてはいけないのか、1/3が信者になればいいのか、三つの考へがあるがここでは触れない)
小松原法難で鏡忍房と工藤吉隆が殺されたのは、ご利益がないせいだ。XX会の第二代会長戸田城聖は、功徳とは言ったが、ご利益とは云はなかった。功徳とは善行のことだ。当時は全体を信者にすることが善行だと考へた。
全体を信者にすることを放棄した今となっては、功徳はない。だから例外に入ることを勧めてきた。(終)

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