千四百二十七 岩鼻通明「出羽三山」
庚子(仏歴2563/64年、西暦2020、ヒジュラ歴1441/42年)
三月二十七日(金)
岩鼻通明さんの「出羽三山」を図書館から借りたのは、まったくの偶然だった。通常はインターネットで予約をして取り寄せるのに、たまたま開架の棚で見つけた。「はじめに」に江戸時代は
現代とは異なり、自由な旅行が許されなかったために、宗教的な旅は一種の方便でもあった。それによって、住み慣れた地域とは異なる、いわば異文化を体験することが、目的のひとつでもあった。遠距離の旅は、多くの場合、当時「三都」と称されていた江戸・京・大坂を巡る高弟となっており(以下略)
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今の海外旅行に該当するものだった。思へば日本で普通の人が海外旅行に行くようになったのは、プラザ合意の後だ。
中世の修験者は、いわゆる遍歴放浪民であったと考えられるが、徳川幕府は、他の遍歴民と同じく、修験者の定着をうながす宗教政策をおこなった。その結果として、霊山の山麓に修験者の定住する門前町が形成された。
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さて
徳川幕府は本山派と当山派の二大勢力のみを修験として公認した。そのために、羽黒派や彦山派のような地方修験は、いずれかの傘下に属さざるをえなかった。修験ではなく、仏教寺院として存続の道を選んだ霊山も多くみられた。長野県の戸隠山(天台宗)や(中略)山形県寒河江市の慈恩寺(天台宗・真言宗)などが(以下略)
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その後、羽黒山と彦山は半世紀から一世紀を経て、独立を認められた。

三月二十八日(土)
古代・中世において日本の北の境界は佐渡であると認識されていたが、(中略)奥州平泉が、稲作民と狩猟民の境界に位置する古代都市であったのと同じく、月山・鳥海山以北は狩猟採集民であった蝦夷の支配する地域であり(中略)月山神社と大物忌神社は境界を守護する宗教上の拠点として配されたといえよう。
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更に
対立する蝦夷の勢力もまた、境界の神を信仰しており、双方から信仰を集めるという両義的な性格を有していた(以下略)
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さて
僧兵のような武装勢力が含まれていたとも推定され、荘園を所領として(以下略)
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この当時の
中世には羽黒山一山の総称は寂光寺であったとされるが(中略)中世末期には、羽黒山頂付近に寂光寺、五重塔付近に龍水寺、荒沢には荒沢寺という、それぞれの寺院が分立していたとみるべきであろうか。
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これらは五重塔台座銘、荒沢寺棟札に寺名が書かれることからの推定だが、寂光寺の配下ではないことの証明としては不十分だと思ふ。
湯殿山は山そのものがご神体となっているのではなく、山中の沢沿いに涌出する温泉の成分が凝固した赤茶けた巨岩が、ご神体だからである。明治の神仏分離以前は、「ご宝前」と呼ばれた。ご神体の奥には、岩供養と呼ばれる先祖供養の場が設けられている。
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岩供養の前だからご宝前なのではなく、巨岩を拝観する場所がご宝前なのだらう。
湯殿山の開山者は(中略)湯殿山注連寺および湯殿山龍水寺大日坊の縁起によれば(中略)弘法大師空海であるとされ(以下略)
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神仏分離により、明治五年に修験宗が廃止された。
当初は東叡山や平泉の中尊寺を通じて仏教にとどまろうとする動きもみられたが、羽黒山内の清僧修験は翌年末に復飾神勤して、仏像などを一部の寺院に集め、羽黒山は出羽神社と改め(中略)別当であった官田は、荒沢寺や開山堂、五重塔、南越、吹越を仏地として残すこと、月山山頂は神社とするが、胎内岩付近は仏地とすることなどを取り決めた。
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これだって清僧修験の復飾神勤は大問題だ。ところが明治政府が出羽三山神社宮司として明治六年に派遣した男は
すでに復飾していた羽黒山内の清僧修験の院坊を破却して、山内から追放した。仏教徒に転じていた手向の妻帯修験にも復飾神勤を求めて、神道への転換を迫った。
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悪質な男だ。これでは羽黒ではなく腹黒だ。
八方七口の別当寺のうち、七五三掛注連寺と大網大日坊は真言宗寺院として存続する道を歩んだ。残る別当寺は神道に変わり(以下略)
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手向の三〇〇余りの宿坊のうち、正善院のみは仏教寺院として残った。51
三百余りのうち一つだけとは驚愕するばかりだ。
羽黒山の奥の院とされ、近世には女人禁制の地であった荒沢三院は荒沢寺として正善院のもとに引き継がれ、正善院の向かいに位置する黄金堂も仏地として残った。
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ここで第4章160頁の古図を見ると正善院と黄金堂の上部に荒沢不動があり、その上部に三院ほか多数の堂宇がある。現在の地図でも荒沢寺はその位置にある。ところが正善院と黄金堂は、宿坊街にあるから注意が必要だ。
さて戦後は
それまでの国家神道の時代が終焉した。出羽三山神社は神社は神社本庁のもとで宗教法人となるが、手向には、出羽三山神社に属することなく、独立した単立宗教法人の道を歩む宿坊もいくつか現れ(以下略)
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私の想像によると、宿坊は元から個人経営だ。戦後は税制などで宗教法人を名乗るところも現れたかも知れないが、それは単立とは無関係ではないか。単立以外が出羽三山神社の被包括宗教法人とは考へ難い。

三月二十九日(日)
64頁の出羽三山、三学宗教集落、登山道の地図と、65頁の八方七口の表は貴重だ。
山岳宗教集落登拝口旧別当寺
宗派
旧寺領寺社
明治以降
戸数
人口
月山
登山者数
手向(とうげ)羽黒口寂光寺
天台宗
1460石余出羽三山神社327戸
1581人
31万4600人
七五三掛(しめかけ)七五三掛口注連寺
新義真言宗
148戸
997人
5万1900人
(参詣者数)
大網大網口大日坊
真言宗豊山派
↑七五三掛
に合算
肘折(ひじおり)肘折口阿吽院
天台宗
八幡神社148戸100人
大井沢大井沢口大日寺
新義真言宗
4石5斗湯殿山神社113戸
659人
本道寺本道寺口本道寺
新義真言宗
6石5斗湯殿山神社34戸
208人
600人
岩根沢岩根沢口日月寺
天台宗
出羽三山神社74戸
459人
3800人
戸数と人口は1878年(肘折のみ1965)、月山登山者数は1977年とある。登山者数は1977年だが、94頁に1879年の湯殿山各口参拝人数がある。7月から9月までの合計が、羽黒7560、田麦俣5576、本道寺9745、岩根沢7150、大井沢3673、肘折395。
田麦俣とは、廃仏毀釈ののち七五三掛と大網の登拝口が消えて作られた。

三月三十日(月)
手向の宿坊には妻帯修験と呼ばれる半僧半俗の修験者が居住していたが、仁王門より山中に居住した清僧修験は妻帯せず、髪の毛を剃って頭を丸めた僧侶の修験者であった。132
仁王門が境界だったのは貴重な情報だ。
志津から玄海を経てこの石跳沢を登りきった場所は、「装束場」と呼ばれている。(中略)この内陸側と荘内側の分水界の地こそが、近世において天台宗側と真言宗側の祭祀権の境界であった。(中略)この場所で装束を着替える必要があったという。それゆえ、八方七口の別当寺が、それぞれ装束を着替えるための小屋を設けていたのであった。
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前回鶴岡を訪問した時は石原莞爾を調べるついでに羽黒山に行ったが、六月に湯殿山に行き大日坊、注連寺に寄ることを計画した。ところが交通機関が不便だ。
大網大日坊と七五三掛注連寺には、塔中の清僧は存在せず、「山内衆」と呼ばれる真言宗当山派に属する妻帯修験が存在した。彼らは奥州以外の参詣者の先達を務め、他に欧州からの参詣者の先達を務める湯殿山案内先達が、大日坊と注連寺に各一五名いたという。
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鶴岡駅からの路線バスの停留所「案内所前」で
今なお、バス停のすぐそばに参詣人案内書と記された小さな建物がある。(写真略)。
手向では、霞場ないし檀那場と呼ばれる布教担当地域が宿坊ごとに決まっていて、(中略)不明な場合には、この案内所で確認することになっていたのであった。手向には、宿坊以外に二軒の旅館があるが、これらの旅館は月山から下ってくる参詣者しか泊めてはならないことになっていたという。
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これは宗教とは無縁の話だ。今なら宿坊の独占禁止法違反行為であった。天台宗と真言宗の祭祀権争ひもさうだが、宗教とは無縁なことがあるため、明治維新のときに排除されたのではないか。尤もだからと言って神道側が掠め取ってよいことにはならない。
黄金堂の描かれた上部の空間に中経堂院・北之院・聖之院の荒沢三院に加えて、中いくつもの堂舎の表現がみられる。
これらの中で重要と思われるのが、常火堂である。中常火堂が存在したからこそ、羽黒山の奥の院とされ、女人禁制となっていたのではなかろうか。経堂院の少し左には、この奥の院の地を迂回する「女人道」の文字が見える。


三月三十一日(火)
今日、日本各地には十数体の即身仏が残るとして中平泉の藤原四代のミイラを除くと、一六体である。そのうち、一三体が東北地方および新潟県に存在し、なかでも、庄内地方には六体の即身仏が残る(以下略)178
さて
一世行人は、八方七口の宗教集落にもとから居住していたのではなく、他所から流れ着いて寺院に弟子入りした者であり、赤宗教者のなかでも最下層とされた。「一世」とは、跡を継ぐものはなく、一代限りであることを意味するものであろう。中息子に跡を継がせることのできる臍帯修験と比べると、明らかに不安定な身分であったといえよう。
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清僧はもともと一代限りだ。弟子に継がせることはあっても、それが無いことを以って不安定な身分とは云へない。
次の章では、宿坊での食文化について記されてゐるがこれは割愛し、紹介を終はりにしたい。膨大な調査には、敬意をいくら表しても、表しきれない。しかし仏道の立場から見れは疑問に思ふことが、わずかだが存在する。私と岩鼻さんで意見が一致するのは、神仏分離の恐ろしさだ。(終)

追記四月二日(木)
正善院と黄金堂の位置が気になるので再度、本を読み直した。正善院から荒澤三院が上に書いてあり、途中は途切れることなくお堂が点在するが、実はかなりの距離なのではないか。すると謎が解けた。荒澤三院の右上に湯殿山があることも、なるほど近代科学での距離を無視したのだと判った。そのことは書籍にも書かれ
この絵図には、羽黒修験の、いわば世界観を巧みに表現した構図が採用されている。中出羽三山信仰の伝統的な宗教景観を知るうえでの大きなてがかりと考えるべきである。
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とある。

固定思想(二百四十一の四)固定思想(二百四十三)

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