千四百十四 自宅と職場近辺の話題(ふすま、推量の「づら」、時差出勤、野菜炒め、お墓参りと上野浅草根津)
庚子(仏歴2563/64年、西暦2020、ヒジュラ歴1441/42年)
二月二十九日(土)
妻と私で、古いふすまを二枚、分別収集に出すため細分化した。昔なら燃やしたが、今は大気汚染防止のため禁止だ。手でバキっと追って細分化した。妻はのこぎりを使った。残り六枚は明日行ふことになった。

三月一日(日)
ふすまの残り六枚が急遽中止になった。下の子が四月から就職する。スーツを購入するので出してほしいと云はれ、ふすま購入費をそちらに回すことにした。
本日は「信濃のコロンボ」と云ふテレビ刑事ドラマを始めてみた。「8アリスの騎士」で、「信濃のコロンボ」は初めてなので楽しく観ることができた。この種のドラマは、何回か観るうちに飽きる。
佐久でホテルのルームメイク従業員が「・・づら」を多発した。二つ疑問がある。(1)番組ではどんな場面にでも付けたが「・・だろ?」で使ふのでは?、(2)駿伊遠州、甲州、信越線沿線を除く信州方言なので、佐久では使はないのでは?
インターネットで調べると、推量の「ずら」は、松本、木曽では専らこれを使ふが、佐久では「だらず」「ずら」「べえ」とある。私の祖母は、疑問のときのみ「づら?」を使ったが、推量全般で使ふらしい。あと過去形は「っつら」になるから現在形は「づら」かと思ったが、Wikipediaでは「ずら」だ。

三月三日(火)
先々週の火曜に引き続き、朝の出勤は新大久保駅で降りて100円ローソンに寄った。新しい改札口が出来て、駅前店の前に出る。今まで駅前店に寄ったときは、そのまま西側に歩いたが、今回初めて大久保通りに戻った。百人町店を見るためだ。やはり休業の貼り紙があり、連絡先はローソンストア100の本社だ。閉店ではなく休業らしい。

三月六日(金)
一昨日、昨日と、郵便を取りに行くときに二十五階から一階まで歩くことを中止した。先週も一回中止した。夜中や夕方に足がつってから、週に一回程度歩かない日が現れ出した。これは老化現象か。
コロナウィルス対策で、出退勤が一時間早くなった。帰りは電車が空(す)くので、爽快だ。スーパーで魚の半額割引が残ってゐるのもうれしい。

三月八日(日)
夕食の準備で、妻から野菜炒めの作り方を習った。今までは、野菜不足への対処や、古い野菜の使用で、味噌汁に入れてきた。だから私の作った味噌汁は具が多いのだが、明日から野菜炒めが加はった。

三月十六日(月)
今朝、電子レンジが加熱できなくなった。妻が云ふにはその前にバチっと音がしたさうだ。この電子レンジは、昭和四十七(1972)年に引っ越して5年ほどして購入したと思ふ。
タイマーが電子式ではなく、60秒以下の場合は一旦1分以上にしたあと戻さないと、短い秒数で終了すると云ふ代物だ。正面にNationalと書いてある。当時の松下電器産業だ。私が小学生のころ、民放テレビで「明るいナショナル」と云ふCMが有名だった。
昼休み後に接続して私用外出を取り、新宿駅前の二つの家電店に行った。そして新しい電子レンジを発注した。家に届くのは明後日だ。

三月十八日(水)
新しい電子レンジが到着した。今までは600Wだったか、今度は700Wだ。アイリスオーヤマと云ふ初めて聞くメーカーだ。調べると、元はプラスチック雑貨などのメーカーだったが、2012年に大手家電メーカーで退職勧奨された人たちを受け入れた。たいしたものだ。
古い電子レンジは、裏側を見ると93年の製造だった。なるほど一度目の電子レンジが壊れたあと、二代目だった。今度はタイマーが、電子式ではなくゼンマイ式なので安い機種なのかなと思ったことを思ひ出した。今回家電店では、ほとんどの機種がゼンマイ式になった。

三月二十日(金)秋分の日
二月初めに購入した地下鉄土日券は、四枚使っただけであとは手付かずだ。新型コロナウィルス騒ぎが原因だが、四月に入ってからでも間に合ふ。
しかし本日は気分転換で久しぶりに外出し、根津、上野、浅草、秋葉原と神田古本懐に行くことを計画した。池袋-200-根津-歩き-上野の山でお花見-170-浅草寺-170-末広町-歩きで電気街と古本街-九段下-170-高田馬場、と計画した。
妻が、鶯谷の墓参りにも行くやう云ふ。最初は、根津から徒歩で鶯谷に寄ってから上野に行かうとしたが、妻がお墓用に花を買ってきた。花を持ちながら根津から鶯谷はきつい。そこで、JR-鶯谷-お墓参り-上野のお花見-上野-170-浅草-170-末広町と変更した。
京浜東北線は鶯谷に止まらないため、上野で降りて公園口から外に出た。駅前の車道が通行止めだ。工事中が原因ならいづれ開通するが、このまま車道を廃止したほうが落ち着く。ABAB前三叉路からのなだらかな坂が桜の中心地だ。これを坂上から眺めたあと、寛永寺前から陸橋を渡り、鶯谷方面への坂を降りた。今回初めて気づいたのたが、上野駅の洗浄線は三つある。なぜ今ごろそんなことに気付いたかと云ふと、3線とも空で、2線目のみ線路が錆びてゐない。かつて上野客車区があり、線路自体は駅構内だらうがその名残りだ。坂を降りながらでも、3線がよく見えた。
お墓参りを済ませて、入谷から浅草まで地下鉄に乗った。仲見世にひとがほとんどゐない写真を見たので、私も一目見ようと行ったのだが、かなりの混雑だ。祝日としては普段より空いてゐるとしても、平日よりは混む。
木馬亭の前も、奥山も、それなりの人出だった。
浅草から上野まで地下鉄で戻った。今度は京成上野駅の横から地上に出て、先ほど坂上から見た桜並木を坂下から見た。開花とは云へ、三分咲きだ。この先どうするか迷ったが、坂を半分上がり弁天堂から不忍池の西側に出た。
かつて不忍池の西側に奇形のタワーマンションがあり目障りだった。それが無くなり、代はりにタワーマンションが三つあり、これらは目障りではない。建物は周囲との調和が大切だ。
盆栽クラブの前、はん亭の後を歩き、根津駅前に出た。はん亭は木造三階建てで有名だが、昔は裏の道を歩いて何とも思はなかった。昔はかう云ふ家屋が他にもあったのだらう。有名なのは藍染町の富士荘だ。小学生高学年くらいのときに、火事で全焼した。
路地を歩き、むら八の閉まったシャッターの横で車で食品を販売する女性にむら八を尋ねたところ、たまたま本日は休業とのことだった。私は昭和31年の生まれだが、幼稚園の時むら八は既にあったと説明した。しかし今のビルは昭和45年頃に建てたものだ。根津に初めてのマンションで、まさか周囲がマンションだらけになるとは、そのときは思はなかった。
権現様(根津神社)の裏門から入った。駐車場の両脇にお神輿を入れる倉庫が2棟出来た。駒込稲荷の左に、昭和40年頃寄付をした人たちの名前が金ぴかの板で表示された。石垣の名前を纏めたのだらう。本殿の右の大神輿展示場の前にお札の授与所ができた。従って大神輿展示場は倉庫になった。
前回、或いは前々回に来たときの変化だが、権現横の看護師寮が日本医大大学院になった。かつて横門から裏門まで白衣を着た看護師さんたちがたくさん歩き、その光景は根津権現の風物詩だった。
根津から池袋まで地下鉄で戻った。淡路町で丸の内線に乗り換へたのは、根津駅が出来て五十年経つが、初めてのことだ。(終)

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