千三百八十一 ミャンマー系焼肉店「おかやま(お母山)」繁盛の理由を探る
己亥、西暦2019、ヒジュラ歴1440/41年、紀元2679年、仏歴2562/63年
十月三十日(水)
大久保に残った唯一のミャンマー系料理店おかやま(お母山)で昼食を食べた。
一時間の私用外出で会社を出発し、遠回りになるが西新宿でかつて三軒タイ料理店があった通りに寄った。何とタイザップの跡がキンヌアと云ふタイ料理店に戻った。開店と書かれてゐるので本日或いは前日辺りだらう。今日は「おかやま」が目的なので、後日入ることにした。
本日はもう一箇所寄るところがある。20年ほど前にあったビルマ(当時の国名)料理店の跡を見ることだ。先日出社時に寄ったときは階段のシャッターが閉まってゐた。いつもは百人町の交差点から斜めに大久保駅南口に向かふが、本日は小滝橋通りを城北信金の支店がある四つ辻まで歩いた。かつてミャンマーの食材店が右側にあったさうだが、今は無かった。
四つ辻を右折し、大久保駅北口前のビルは、確かに見覚へがある。窓から山手線が見えたことを今でもはっきり覚へてゐる。外壁が白いビルだったことも、記憶と一致する。二階にネパール料理が入る。インターネットではビルマ料理店は三階だった。それにしてもネパール料理店が最近は目立つ。在日ネパール人が急増してゐるさうだ。
新大久保駅で、駅員に韓国人留学生の銘板を訊くと、階段が直角に曲がる背面だった。なるほど今まで気づかなかったのは、人が多いから曲がった先を見ないと危ない。工事中だから、韓国首相が来られたときは工事の板をはがしたのかと思った。
新大久保駅を過ぎると、韓国街になる。なるほど駅が混むのは韓国街を目当てに来る若者たちだった。「おかやま」は大久保通りから一本入った路地の二軒ならぶ食堂の奥側で、立体駐書場の隣で立地は悪いが、繁盛する。
韓国の焼肉屋がたくさんあり、目立たない位置にも関はらず、ランチには日本人客が多い。これはミャンマー色を出さないことが功を奏した。
インターネットによるとディナーの時は、ミャンマーの料理が少しあるし、ミャンマー料理のメニューも別にあるさうだ。
日本人客を狙ふなら、ミャンマー色を出さないのは良い戦略だ。しかも寿司、そばなど日本料理と異なり韓国風焼肉は、日本語が多少下手でも問題ない。
「おかやま」のママさん(夫婦で経営)の日本語は下手ではない。それに比べて繁盛しない店は日本語が下手なためか、店員が無愛想に映る。ロボットが無言でモーターの音を小さく響かせて食事を持ってくるのと変はらない。下手でもよいから「おまたせしました」「ごゆっくりどうぞ」「またいらしてください」など一言話すとよい。

十一月二日(土)
インターネットの評判を見ると、店主は焼肉店で十年間修行したさうだ。一人で店を切り盛りしてゐるとあるから、その後、奥さんが加はったのだらう。だとすれば、店が繁盛する理由は十年間の修行だ。肉が上質なのに価格が手ごろと云ふ評判もある。
かつて日本にゐるミャンマー人は、不法滞在者も多かった。パスポートの更新ができず期限超過になったり、本国に帰れないなどの理由だった。働くには仲間どほしの社会に留まるので、ミャンマー料理店はそれらの人々で繁盛した。
日本国内で不法滞在者の取り締まりが厳しくなった時期があり、それでミャンマー料理店が激減したさうだ。その後、スーチー政権の誕生とともに留学生など正式に滞在する人が多くなったが、彼らはそれほどお金がない。それまでゐた人たちも所帯を持って自炊するやうになった。その状況が今でも続く。
お店を繁盛させるのには、十年間修行するのが本当はいい。しかし年令が上の場合は、カレー店から始めたらどうか。ミャンマーカレーとタイカレーはすぐできるだらう。インドは隣国(今はバングラディシュだが元はインド)、スリランカは上座の国として昔から長い交流がある。四か国のカレーを扱ふとよい。

以上の話とは別に、最初に書かなければいけないのだが、ミャンマー料理店はずっと減少傾向にある。このやうなときに新規開店することは困難が多い。タイに行ったことのある日本人は多いが、それでもタイ料理店は閉店と開店を繰り返す。
新たに開店する場合は、ミャンマーを表面に出さないことが必須だ。高い価格満足比で焼肉など特長が必要だ。(終)

ゴールデンバガン

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