千三百七十八 ミャンマー経典学習会(法に関する随感、障害の部)
己亥、基督歴2019+3α年、ヒジュラ歴1440/41年、紀元2679年、仏歴2562/63年
十月二十一日(月)
和光のお寺には、先月に続いて自転車で行った。今回は道に迷はなかった。外環から左折の後に、右折左折右折と三つあるので間違ひやすい。お寺に着くと、ミャンマー人のグループが会食を終へて帰宅を始めるところだった。お母さんのお祝ひださうだ。
本堂は片付けなど、まだ人がたくさんゐるので、仏像に三拝ののち、自転車でその辺を走ってくるかと考へてゐると、オバササヤドーから右側の部屋で行ふと話があった。部屋には仏像が安置され、上には傘がある。左に冷蔵庫が右向きに置かれ、従って扉が開かないが、借り置きなので今後に期待が持てる。
今回は通訳さんを除いて参加は6名。世話人のIさんは新高島平から歩いたさうだ。中板橋の時代は自転車だった。
終了後に余った昼食を頂いた。カレー色のご飯、骨付きの鶏を炒めたもの、どくだみ風のおひたし。終了後は冷蔵庫に入らないので、調理机に置いてほしいと云はれ、皆でラップを掛けた。
八斎戒と云ふことで、食べない方が一人ゐた。熱心なことで敬意を表したい。
食事の時、ミャンマー人の中心者から、こんな話があった。まづ戒壇、次にパゴダを建設したいが、パゴダが先になりさうだ。ミャンマーでは頭金と呼んで、1000万円だとか誰かがパゴダ建設のためと寄付すると、他の人も次々に寄付をするさうだ。
和光に多額の寄付をするはずの人が、東松山が先に決まったためそちらに寄付をしたと云ふ話もあった。どちらに寄付をしても善行に変はりはない。
外は暗く木に付けたクリスマス風の電飾がきれいだ。中板橋のお寺にはビルの外壁に電飾があることを思ひ出した。外では塀に飾りを付けるための板をつける作業をしてゐた。
家畜を飼ふ小屋が解体され、平地になった。Facebookで解体中の写真をみたが、平地になったところは初めてで驚いた。
復路は幸魂橋の手前でうっかり車道に行ってしまった。途中で変更ができない。そのまま車道を走ったが、空が暗い上に車道の外側の線が30cmくらいしかないので、自転車で走行は危ない。

十月二十二日(火)
学習会は法に関する随観・障害の部の二回目で、メモ書きによると(経典は橙色)
蓋が起きないやうにして瞑想。瞑想をしやすくする努力。
惛沈・睡眠は、(1)楽だから起きる。(2)もう一つの原因は食べ物。食べ過ぎ。瞑想をやらなくなると、禅定の功徳などが無くなる。
(1)食事の量。最後を少し残し、水を飲む。(2)瞑想する体勢。歩いたり立ったり。瞑想を続けることが大切。(3)光を見る。夜は月や星。昼は太陽の光。(4)部屋から何もない外。(5)いい友達がゐる。教へてくれる。(6)いい友達と煩悩消す方法を僧団し合ふ。(まとめ)努力し続ける。
あるいは内に落ち着きのなさ、後悔があれば「私の内に落ち着きのなさ。後悔がある」と知り。心がさまよふ、心に迷ふ。自分がこれまでした悪いことを心配したり、良い事をしなかったことを後悔。正しく理解してゐないから起きる。サマディがないとアクサの害に陥る。
別の経典では物を寄進されたとき貰ってよいか(1)経典を勉強、(2)規則、(3)経典にないときは何人か知ってゐる人に訊く、(4)詳しい人に訊く、(5)親友を持つ、(6)親友に相談する。
(席を一時離れたので、聞き逃した部分があった)
あるいは内に疑いがあれば「私の内に疑いがある」と知り
正しく理解できないのが原因。正しく理解することで功徳となる行ひをして消す。功徳と悪い行ひがあるのが釈尊の教へ。比丘の教へとして(1)知識が豊富に。三蔵、(2)規則を訊く、(3)規則を勉強する、(4)仏法僧を信じる(ここが今までと異なる)、(5)親友、(6)親友に相談。
アビダンマでは蓋はもう一つある。蓋の原因を知り無くすことが、禅定や涅槃。他人についても随感
蓋をまとめると、禅定、涅槃を妨げる。正しく理解できてゐないから。功徳になるのは何かを勉強。

今までこれらの蓋を対象として瞑想すると考へてきたが、これらが瞑想を妨げると気付き修正しながら正しく瞑想することが目的だと感じた。
休憩後の質問の時間に、大念処経に書かれた身の随観、法の随観などについて性格に合った方法を選択すると名前は忘れたが駒澤大学の教授が言ってゐるが、さうなのかを質問した。回答として
大念処経は瞑想法を並べて解説したものでどの性格とは言ってゐないが、瞑想法自体は人に合った方法を教へる。お釈迦様は、その人に会っただけでどの瞑想法がよいか選択したが、その後は選択できる人がゐなくなった。今は一つの方法を瞑想センターで教へることが多い。

これは貴重な回答だ。瞑想センターに合った修行者はそれがよい。合はない人は農村や市井のお寺で出家し、信徒とともに苦楽を共にするうちに、大念処経などを読むうちに良い方法に出会へる。
私自身は、信徒が瞑想をすることの意義に、まだ半信半疑のところがある。農村や市井の比丘が信徒と苦楽を共にするのと同じやうに、農村や市井の信徒は比丘と苦楽を共にするのが修行の気もする。(終)

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