千三百三十二 1.ライトレールを考へる、2.越中越前觀光復興の方法を探る続編
己亥、西暦2019、ヒジュラ歴1440/41年、紀元2679年、仏歴2562/63年
七月二十三日(火)
日本では路面電車の廃止が25年前ほど前まで続いたが、欧米ではこのときライトレールが登場した。そしてJR西日本の旧富山港線を引き継いで、日本でも最初のライトレールが誕生した。
ここで、路面電車とライトレールの違ひを述べると、黒字(或いは廃止するほど赤字ではない)などの理由で存続するものが路面電車、新規に都市計画を考慮して開通させたものがライトレール。ライトレールは新規なので、車両は新しい技術が採用される。
次に、従来の路面電車も新しい車両を導入するときはこの車輛を用ゐるから、この時点でライトレールになる。富山地方鉄道の富山市内線に乗ると判るが、新しい車両はライトレール、古い車両は路面電車だ。古い車両は東京都電で云ふと昭和30年代に登場した7000型の四次車以降と同じだ。
都電の7000型は予算と中期経営計画でさうなったのだらうが、一次車は直接制御で台車はコイルバネ、二次車は試作で1両のみ、三次車は旧型車両の台車と動力機器を再利用し直接制御で重ね板バネ、四次車以降が間接制御、コイルバネになった。小学生のときの記憶では、直接制御車と間接制御車に加速度の差はなかった。しかし中学生以降に乗ると、間接制御車は高加速度だった。モーターを高出力のものに交換したためだらう。
富山市内線の古い車両は、この四次車と同じだ。だから高加速度だが、昭和30年代の製造だ。

七月二十六日(金)
来年二月に、富山ライトレール株式会社は富山地方鉄道株式会社と合併することになった。その翌月に富山ライトレールが富山市内線に乗り入れるため、一体運用するためだ。
ここで富山ライトレールは、ライトレールの名称を消滅させてはいけない。本来は、地方鉄道法(今は旧日本国有鉄道法を併せて鉄道事業法)に従ふものが地方鉄道、軌道法に従ふものが軌道だから、ライトレールと云ふ区分はない。(因みに「地方」には民間の意味があり、例へば戦前に軍部がいばってゐた時代に、議員などが軍部に反対すると「地方人のくせに何を云ふか」と反発された話を聞いたことがある。この「地方」と同じ使用例だ。)
軌道の廃止は、かなり後まで続いた。私が平成四(1992)年の冬に青春十八切符で新潟市に一泊して往復したとき、県庁前に一両編成の路面電車が停車してゐた。新潟交通電車線である。そのときは乗らなかったが、二か月後に東関屋の鉄軌分岐点までが廃止になり、平成十一年には鉄道部分も廃止になった。
軌道が次々に廃止されるなかで、平成十八(2006)年富山ライトレールが開業し、これ以降、軌道は反転に出た。その記念すべきライトレールの名称は残すべきだ。合併ののちは、富山港ライトレール線などと名乗るとよい。

七月二十七日(土)
富山県には五箇山がある。これとよく似た白川郷について、アレックス・カーさんが産経新聞のWeb版
岐阜県白川村の白川郷には年間170万人を超える観光客が訪れますが、平均滞在時間は約40分といいます。写真を撮って自動販売機でジュースを買う程度の観光客のための駐車場やトイレの整備、ごみや廃物処理に地元は大変なコストをかけている。費用に見合う収入があるのでしょうか。

と疑問を呈してゐる。
富山県の五箇山に行くには、高岡または親高岡から城端線を利用させる。直接、観光バスまたは自家用車で行くときは入場料を徴収する。これで城端線は廃止の心配が無くなり、沿線住民と富山県の役に立つ。
信州の上高地を参考に、自家用車の通行規制を行ってもよい。これで城端線と地元バス会社が潤ふ。排気ガスや騒音から地元と自然が守られる。

七月二十八日(日)
高岡市は、万葉和歌及び長歌コンクールを開催したらどうか。最初は参加者が少ないから、市内、県内、北陸地方が中心になる。だんだん大きくなるにつれて、万葉集が見直されるとともに、長歌が日本に復活する。
富山市は、富山港ライトレールの名をいつまでも続けよう。福井市は、穏健思想の街として売り出す。これで北陸地方は盤石だ。(終)

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