千三百二十八 藤田宏達、菅沼晃、桜部建共著「アジア仏教史 インド編Ⅱ原始仏教と部派仏教」を読んで
己亥、西暦2019、ヒジュラ歴1440/41年、紀元2679年、仏歴2562/63年
七月十一日(木)
「アジア仏教史 インド編Ⅱ原始仏教と部派仏教」は昭和50年に出版された。世界は東西冷戦下でベトナム戦争が東側勝利の直前だし、日本ではXX会がその数年前に布教を停止したものの、いつ再開しないとも限らない。日本国内は左右が対立し、宗教界も緊張の只中にあった。
だから中村元さんが他の二人とともに監修、編集に名を連ねるとは云へ、書籍の内容に悪影響は及ぼしてゐない。否、中村さん自身がこのときはパーリ語や上座の仏道に情熱を持った時代だったと信じたい。
藤田宏達さんと桜部建さんが「はじめに」で、二人が執筆するはずだったが、藤田さんの都合で菅沼晃さんも執筆に加はったたことが書いてある。
第一章は藤田さんの執筆で
ジャイナ教聖典もアルダ・マーガディー語(半マガダ語)という仏教のパーリ語と同系統の俗語で書かれている。
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半マガダ語とパーリ語を同系統としたのは藤田さんの卓見だ。とかくマガダ語はインド東部、パーリ語はインド西部と、別の方言であるかのやうに論じる書物が多い。
釈尊が何をさとって仏陀となられたかということは(中略)原始聖典を見ると(中略)十五種ほどになり、これを大別すると
(一)四諦・十二縁起のような理法を証徳したことによるとするもの
(二)四念処・四正勤・(中略)・(これらを総括して三十七菩提分法という)のような修行道の完成によるとするもの
(三)五蘊・十二処・四界のような諸法の如実の観察によるとするもの
(四)四禅・三明の体得によるとするもの
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結論として
もし根本となるものは何かといえば、やはり縁起の思想があげられるであろう。(中略)十二縁起ということような形にまとめられる前の、深遠な宗教的体験としての縁起の自覚ということが、成道の根本的立場ではなかったかと見るのである。

私も藤田さんの説に100%賛成だ。否、原始経典を読めば、誰もがこの結論に達するはずだ。と同時にそれは、原始の仏道とそれを引き継ぐ上座の仏道は正しいことだ。昭和五十年は、日本の仏道はまだ正常だった。しかしその後、上座を誹謗する変な言論が出て来た。
第一結集について
ウパーリが「律」(ヴィナヤ)を、アーナンダが「法」(ダンマ)を誦出して、出席者全員が釈尊の教説を確認したという。
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律を1番目に書いたことの重要性を我々は認識する必要がある。一番目に戒律、二番目に布薩(ウポーサタ)の儀式。日本に住むととかくこれらを忘れがちだ。
在家信者を相手とする場合は、まず施論・戒論・生天論の三論が説かれるのが常であって(中略)本来的な教説といわれるものが直ちに説かれるわけではない。
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これも賛成だが、これら三論は社会の風習だ。それほど説く必要はなかったと思ふ。だから
在家信者向きの教説は(中略)出家集団によって編集され、伝承されたために、大部分失われてしまったのではないか、と考えられるのである。
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これは無いと思ふ。その理由は藤田さんも認めるやうに「断片的であるが見出される」からだ。私と藤田さんの唯一の意見の相違になった。

七月十二日(金)
第二章と第三章は菅沼さんの執筆だ。
縁起の自覚ということが釈尊の成道の根本であるとするのがふつうである。四諦説は十二縁起説を別のかたちで組織したものであるし、後に三十七道品とよばれる四念処・四正勤などの実践の道は、縁起の逆観であらわされる無明・渇愛を滅するための道にほかならないのである。
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100%賛成だ。
最初期の仏教においては、四禅や四無色定を順次に実修していくという形式よりも、生存を苦と観じ、あらゆるものを無常と観ずるというような個々の観法が重視されたのであろうと考えられる。
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これも100%賛成だ。初転法輪において
私は不死を得たのである。(中略)教えられたとおりに行うならば、遠からず(中略)無上の仏道修行の究極を、この世で、みずから知り証し実証するであろう(『律蔵』大品、I、九ページ)。
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仏道は、自力で修業するものではないし、困難なものでもなかった。
原始経典で説かれる阿羅漢は、修行によって到達されるものではあっても、アビダルマ教学のそれのように、到達困難なものとはされていない。釈尊に帰依し、その教えを実践した弟子たちはただちに阿羅漢になったと説かれる場合が多い。
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これも100%賛成だ。

七月十三日(土)
第四章、五章、六章は桜部さんの執筆だ。第五章の
出家者たちの生活の場たる僧院と、在家者を中心とした人々の崇敬の場たる仏塔とは、よほど後まで、まったく別個であった。(中略)のちには塔の傍に住房が造られて住み着く人もできたし、やがて大乗仏教の人々は、塔前で、従来の僧伽におけるそれとは別な仕方で、出家し沙門(「比丘」とはいわなかったらしい)となり受戒する儀式をとりおこなったりするようにもなったらしい。
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出家者たちの修行の場と云はず、生活の場と云ふところにまづ偏向を感じる。ここに書かれたことは根拠があるのか。桜部さんの妄想ではないのか。(中略)の部分には
園林の花は塔に捧げられ、その果実は出家者らに供せられた。

が含まれる。この文章には三つの不審点がある。まづ「出家者ら」の「ら」には誰が含まれるのか。二つ目に出家者を悪く描かうとする意図が露骨に現れてゐる。果実も塔に捧げるのが普通だ。そのあと在家者が食べるか、出家者に食べていただくか、そのまま朽ちるのかは不明ではないのか。三つ目にこの状況だと、在家者は部派の信徒だ。それが大乗になるのはどう云ふ経緯なのか古文書の提示がない。
出家者が住み修道にいそしむ僧院と、在家者の集い礼拝供養する仏塔を中心とした塔院とは、全く別個であったが、のちには次第に仏塔崇拝のならわしが僧院の中にも入り込んだ。仏像もその他の彫刻も、もともと僧院には全く見いだされなかったが(以下略)
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この文章も不審だ。もともと原始の仏道には仏像を造る習慣がなく、代はりに仏足を用ゐた。それが後に仏像を安置するやうになった。それなのに桜部さんは仏塔崇拝の習はしが僧院に入り込んだといふ。だとすれば僧院に仏塔が造られるはずなのに、なぜ仏像を造るのか。ずいぶん出鱈目な話だ。

今回ほど、好意的に書籍を紹介しようとしたのに途中で逆転した書籍は珍しい。三人の共同執筆が原因だ。一人目の藤田さんは北海道大学文学部教授。国立大学だから偏向はない。二人目の菅沼さんは東洋大学文学部教授。東洋大学も偏向はない。三人目の桜部さんは大谷大学文学部教授。真宗大谷派の経営だから偏向がひどいのか、それとも桜部さんだけの現象かは不明だ。(終)

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