千三百十五 通り魔事件二人の犠牲者を供養
己亥、基督歴2019+3α年、ヒジュラ歴1440/41年、紀元2679年、仏歴2562/63年
五月二十九日(水)
川崎市登戸で通り魔が包丁で十九人を刺し、二人が亡くなった。事件を末永く伝へ、二人を供養するため「登戸」「高田馬場」「カトリック系小学校」で特集を組んだ。
一、まづは登戸だ。私が富士通の子会社に勤務したのは四年間だけだが、入社当日から数日の研修は川崎工場、配属後は川崎工場小杉分室(子会社の本社所在地)。ここから先は子会社が分割になり、電算部門の子会社になったから不満だらけでどこに勤務したかさへ云はない。
しかし登戸に勤務したことがあった。登戸駅前には個人経営の小売店や食堂がたくさんあった。今は大型店がたくさん進出したことだらう。
当時は歩いてすぐ行ける小田急線の一つ先の駅、向が丘遊園からモノレールがあった。駅前の道路の頭上から発車した。そんな経緯があるので、ご近所の人たちと衝撃と悲しみを共有したい。
二、犠牲者は児童一人と、別の児童の保護者一人で、保護者は外務省職員でミャンマー語の専門家ださうだ。高田馬場のミャンマー料理店にときどき家族で行き、ミャンマー語でカラオケを歌ったり、在日ミャンマー人と歓談したらしい。私もときどき高田馬場のミャンマー料理店に昼食を食べに行くから、同じレストランにも昼と夜の違ひはあっても行ったのだらう。遺族の方々と悲しみを共有したい。
三、私が今の会社に転職し所属が鶴見の横浜事業所だったので住所を鶴見に移転した。十五年後に事業所が新中野に移転した。正規の通勤経路は鶴見から新橋で乗り換へて新中野だが、ときどき経路を変へた。当時は一ヶ月毎に定期代が支給されたが、自己責任で六ヶ月を買って安くなる差額で違ふ経路を選ぶ楽しみがあった。
その一つに都営バス「宿91」があった。今は新代田駅までしか行かないが、前は1/3が駒沢陸橋まで行った。都立大学駅または学芸大学駅で降りて駒沢陸橋の停留所まで歩いた(ここからして普通の人はやらないが)。
最初はバス停で待ってゐると、数人の女子児童とその父親がバス停に来る。バスが発車すると窓越しに互ひに手を振り父親は戻る。その光景を微笑ましくバスの車内から見たものだった。途中のバス停でも何人か児童が乗り、全員が高円寺陸橋で降りた。私は鍋屋横丁まで乗った。
しかし時刻改正があり、今まで前のバスの15分位あとの次と統合して中間の時刻にした。僅かな差で間に合はないのだらう。女子児童のバス利用が無くなった。どこの小学校だらうと調べて、光塩女子学院と云ふカトリックの小学校だと知った。
私の妻は仙台のカトリック系高校の卒業と云ふ偶然もあり、学校関係者の皆さんと悲しみを共有したい。

五月三十日(木)
登戸近辺にはあと三回行ったことがある。一回目は鶴見から生田緑地まで自転車で往復した。民家園と、隣の緑地に従来客車が一両展示されてゐるのでそれを観た。
客車のうち車体に白い横線(或いは金色の線)が二本入った新系列以外を従来客車と云ふ。ところが鉄オタばかりか最近はJRまで、旧型客車と呼ぶやうになった。昔は駅に停車中の臨時列車用客車の車掌室をホームから覗くと「従来客車と連結するときは云々」の注意書きが書いてあった。従来客車は正式用語なのに、鉄オタとJRはこのことを知らないらしい。
あと二回は、東急バスの一日乗車券で行った。

五月三十一日(金)
襲撃事件の記事には、高田馬場の日本ミャンマーカルチャーセンターとの交流を書いたものもある。一年前に竪琴を貸したことが縁になり交流が続いたさうだ。日本ミャンマーカルチャーセンターは五年ほど前に一回行ったことがある。横浜から年末年始に浦和帰省の途中に寄ったところ、年末の休みに入ったあとだった。既に終了したミャンマー祭りのポスターが外に貼ってあった。ミャンマー祭りのことを知ったのはこのときだ。翌年からミャンマー祭りに行くやうになった。
今年は異常に暑いのでミャンマー祭りには行かなかった。犠牲者の方はミャンマー祭りに行ったあと家族で高田馬場の「さくらミャンマー」と云ふ店に行ったさうだ。ミャンマー語の貴重な専門家はもう帰ってこない。(終)

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