千二百九十七 上座に関係する書籍を読む(1.藤本晃「日本仏教は仏教なのか」)
平成三十一己亥年
四月六日(土)ためになったこと
藤本晃さんは浄土真宗の住職だった。しかし上座の比丘をお寺に呼んだりするうちに、地元の宗務所から住職退任勧告を出され、寺を宗派から独立させた。と云っても包括法人が無くなっただけで、今でも浄土真宗を名乗る。
その藤本さんの「日本仏教は仏教なのか」を読み、これだけ上座の教義を信じる人は貴重だと思った。私は中村元さんの書籍などを読んだから、原始仏教と異なり部派仏教は独自の教義を持つものの、しかし部派のうち残ったのは上座部だけだから、上座部の伝統を重視すべきだと考へる。
「日本仏教は仏教なのか」を読み、これはためになると感じたことと、これは違ってゐるのではないかと感じたことがあるので、まづ前者を発表したい。

私は今まで中村元さんの説を信じて、ブツダの話されたのはインド北東部の半マダガ語、それに対してパーリ語は西部の言葉。半マダガ語とパーリ語はどちらも俗語、といふものだった。それに対して藤本さんは
パーリ語による初期仏教聖典には、西方方言だけではなく、インド各地のアショーカ王碑文に見られる方言の特徴がすべて見られるのです。(中略)しかもパーリ語は、すべての方言の特徴をただそのまま持っているだけでなく、それらの言い回しをなるべく揃えて統一・一般化して、どの方言でもない別の言語、いわば標準語のように整えられているのです。
(99頁)
例へ、東北部と西部と云ふ違ひがあったとしても、暗記した比丘たちが訛っただけだから、ブッダの言葉であることは間違ひない。私はマヒンダ長老が西部の出身で訛ってスリランカに伝へたと考へた。しかしブッダの言葉そのものと判れば、これはより一層喜ばしいことだ。
パーリ語は(中略)人工的につくり上げた「標準語」だったというのが、一九八〇年以来の文献学の見解です。この見解は、現在に至るまで続いています。反証がまったく出ないのです。その代わり、特に日本の学界では、なんとなく無視されている方ようにも見えます。

日本の仏教学者はとんでもない連中が多い。次に、パーリ語が俗語だといふことが日本ではよく云はれる。これについて
パーニニという文法学者のバラモンが出て雅語の文法を確立し、その人口雅語がサンスクリット(善くつくられた[言葉])と呼ばれるようになつたのは、釈尊よりもう少し後、紀元前四世紀頃のことでしょう。
(106頁)
パーリ語を俗語と呼ぶことは間違ひであることがよく判る。ブッダの時代の後にサンスクリットができたため、雅語ではないだけだ。

四月十三日(土)半分ためになったこと
従来推測されていたようにアーリア人がインダス文明を滅ぼしたのではなく(中略)インドには土地がいっぱいありますから、誰が入植しても誰も不自由はしないのです。
これはおそらく正しい。藤本さんの慧眼である。しかし
アーリア人が軍事的政治的にインドを支配する一方、文化的にはおよそヴェーダの祭祀しか持たなかったアーリア人が徐々にインド土着の宗教文化を吸収し、融合して、ヒンドゥ教になり、現在に至っているのです。

これは、さうであればいいとしか云へない。言語がインドヨーロッパ語族だからだ。文化に占める言語の比重は大きい。その一方でインド南部のドラビダ語族もヒンドゥ教だから、やはりヒンドゥ教は土着の宗教かも知れない。

四月二十日(土)少しためになったこと
『バウッダ』では、釈尊の経典のパーリ語での表現「ニカーヤnika-ya」をなぜか「アーガマ(阿含)」と言い換えていますが、こう言っています。
(前略)「パーリ五部」にせよ漢訳の「四阿含」にせよ、いずれもある特定の部派の所属に帰するものであって、これらがそのまま仏説ないし釈尊直説(「金口の説法」)であるかのごとく考えるのは、きわめて無理があり(以下略)

(以下略)の部分には「極限すれば荒唐無稽であると評してよい」があり、これはひどい言ひ草だ。バウッダはひどい駄本といってよい。しかしこの部分を(以下略)としてみると、それほど間違ってゐるとは云へない。部派のうちスリランカ上座部だけが正しく、それ以外は間違ってゐると云ふ訳には行かない。各部派の共通部分はブッダの説であり、内容が異なる部分は長年の経年変化で生じたと考へるべきだ。
膨大な教義について、後世作られたとする説を藤本さんが否定するのは、私も100%藤本説に賛成。かつて中村元さんが、古層と云はれる経典を解説する書籍を読んで、私も、ブッダの教説は単純だったと考へたが、これらが後に経蔵に加へられたのは、内容が単純だから第一次結集で経蔵に入れなかったためで、仏説自体が単純なのではないことが判ったためだ。
そのやうな私でも、藤本さんの説で100%不賛成な部分があり
十二縁起は最初から十二項目

十二縁起は、内容から判断して、仏法の根本と云へる内容ではない。それなのに経典で重視されるとすれば、別の理由を探すべきだ。
似た例に四聖諦がある。日本語の解釈が悪いためだらうが、苦集滅道のうち、苦と道は名詞、集と滅は動詞。こんな不ぞろひな説法をブッダがするだらうか。だから、人生は楽だと多くの人が考へるが実は苦だと気付くのが苦、滅の方法に気付いて阿羅漢になることが道、と四つすべてを動詞にすれば、仏法の根本原理と云へる内容になる。三蔵の注釈書などを読めば書いてあるのかも知れないが、少なくとも日本では二つが名詞で二つが動詞の変な解釈しかなかった。
同じやうに、十二縁起について藤本さんのすべきは、その背後にあることを解説することだ。経蔵にあることをいくらアリバイ証明しても、今の日本語の解釈だと、十二縁起は縁起論をアビダンマ式に広げたものとしかならず、多くの人を説得することができない。(終)

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