千二百四十八(兼モリカケ疑獄百七十五、派閥が有効だった時代) 日中国交回復、迎賓館、元外務大臣大平正芳さん
平成三十戊戌
十二月二十二日(土)
昭和四十九(1974)年に迎賓館が完成し、招待者を集めて式典が開かれた。私の両親もこれに参加した。今から数年前に、招待されたのは日中国交回復のときに文書翻訳などを手伝ったためと母から云はれた。四十年前に云はなかったのは、国家機密だったためだらう。しかし四十年も経過してからでは、或いは母が高齢で記憶違ひかも知れないと思った。

迎賓館では大平正芳さんから「これからもお願ひします」と声を掛けられたと、数日前に母から聞いた。そして将来は父が浦和地区の大平派の責任者になってほしかったのではないかと云ふ。しかし父は辞退したさうだ。これも四十四年を経過したから母の記憶違ひかも知れない。
だから母に「浜田卓二郎とはどうだったのだらうね」と聞いてみた。しかし父は浜田さんとは特に親しい訳ではないやうだ。だから母の記憶違ひだとそのときは思った。

その後、調べてみると浜田さんが旧埼玉1区から立候補したのは昭和五十四(1979)年だ。父が辞退した五年後だから、すれ違ひだったのも当然だ。因みに浜田さんは、奥さんのマキ子さんが都知事選に立候補しマスコミにも登場して一躍有名になったが、卓二郎さんは新党ブームで落選した。小選挙区になってからは新進党に移籍しまた自民党に戻って迷走してしまった。

私の母は植木が好きで、自民党県議の経営する植木屋にパートで働いたことがある。この県議が何派だったのか尋ねると、松永光の系統だと云ふ。浜田さんが迷走を始めたのは自民党の中選挙区で競合した松永さんに敗れたためだ。松永さんは中曽根派だ。まだ自民党の派閥が有効だった時代の話だった。

十二月二十三日(日)
日中国交回復の話は四十年後、大平さんの話は四十四年後だ。それにも関はらず信憑性があると判断したのは、大平さんが長崎国旗事件の解決を目指したことだ。Wikipediaによると大平さんは
中国大陸との関係に関しては、(中略)「長崎国旗事件」によって途絶えた日中関係を現実的な重大な課題として受け止め、(中略)アメリカが主導する「中国封じ込め」政策に苦しみつつも、日中経済貿易関係の拡大を徹底して追求した。LT貿易の成立、貿易連絡事務所の相互設置と新聞記者交換の実現等、日中関係はこれまでに見られないほど進展した。

私の父は大東亜省の北京留学生だから、戦後は外務省に勤務する義務があった。勤務しないときは留学費用を返還する必要があった。ただし終戦の混乱で私の祖父と伯父が相次いで病死し、父は祖父の商売を継ぐ必要があった。戦争が無ければ二人は病死しなかったから、事情を認められて外務省勤務が免除された。
しかしこれも最近聞いたのだが、父は商人に向かなかった。祖父の弟子の職人たちを独立させて店を閉じた。そして日中貿易の会社に勤務した。そこに長崎国旗事件が起こり、日中貿易が途絶へ父は失業した。
長崎国旗事件をWikipediaで見ると、犯人は
軽犯罪法第一項の「みだりに他人の看板を取り除いた」ことによる科料500円の略式命令となった。/当時、日本政府が承認していたのは中華民国(台湾)政府であったため、五星紅旗は保護の対象と考えておらず、また在長崎中華民国領事館の要請にも応じたためという。そのため刑法で規定された外国国章損壊罪(外国政府による親告罪)よりも軽い処分に止まったのである。/これに対し中華人民共和国政府は、日本政府及び当時の岸信介首相の対応を厳しく批判し制裁ともいえる行動に出た。5月9日には陳毅副総理兼外交部長が日本との貿易を中止する旨の声明を出し、当時進められていた対中鉄鋼輸出の契約も破棄された。

調べてみるといろいろな関係があるものだ。1キ1スケ1ゾーの岸信介は我が家の先祖代々(と云ふほど大げさではないが)の敵、大平さんは先祖代々の味方であった。

十二月二十四日(月)
父と大平さんが出会ふきっかけは、四つ考へられる。
(1)大平さんは東京商科大学に進学し、千駄木に住んだ。父は根津だから隣町だ。
(2)大平さんは戦前、興亜院に勤務し昭和十四年から十五年まで中国に赴任し、帰国後も昭和十七年まで出張を繰り返した。中国で父が大平さんに会った可能性はある。
(3)大平さんは終戦後、昭和四十一年まで千駄木の奥さんの実家に住んだ。
(4)長崎国旗事件で知り合った。
大平さんが千駄木に住んでゐたことを母に聞くと、既に知ってゐた。我が家の近所の紹介で大平さんと知り合ったさうだ。(3)が正解だった。

大平さんを更に詳しく調べると、国民民主党玉木雄一郎さんの奥さんが大平さんの次男の奥さんの妹、大平さんの孫娘が玉木さんの公設秘書。玉木さんの選挙区は中選挙区時代の大平さんの選挙区。そして玉木さんのお父さんは獣医。
ここはいろいろなことができる。国民民主党が自民党に吸収されることは絶対にしてはいけない。そもそも自民党が受け付けないだらう。国民民主党が岸田派(元の大平派)と組み、反安倍集団を作れるとよい。

十二月二十五日(火)
福田康夫さんは石油会社に勤務し、議員になるつもりはなかった。だから初当選の時に「「二世批判はあるでしょうが、政治家の息子とはいえ私は50歳代」と取材に答へた。そこが北朝鮮ではあるまいし、世襲を当たり前と考へる安倍との違ひだ。
福田さんのやうに仕事で海外勤務をするのはよいことだ。一方で金持ちや世襲政治屋の息子が、カネにものを云はせてアメリカに、留学と云ふ名の人生留年だか属国人改造計画に行くのはよくない。大平さんや福田康夫さんのやうに中国に配慮した外交をするのか、アメリカでゴルフをするだけの外交なのかの違ひが出てくる。
安倍がのし上がったのは、小泉さんが幹事長に抜擢したからだ。万年非主流派だった細田派が大所帯になったのは小泉さんの功績だ。その小泉さんとご子息が今は安倍に批判的だ。細田派は、福田さんを中心とする良識派と、安倍を中心とする水ぶくれ保身派に分かれたほうがよい。

十二月二十六日(水)
それにしても岸信介は邪悪な男だ。日本が承認してゐなくても、国旗は国旗として敬意を持たなくてはいけない。「他人の看板」扱ひは非常識だ。こんな男が首相だったとは驚くばかりだ。
自殺に失敗し死刑になった東條英機、国旗を「他人の看板」扱ひした岸信介、カルロス・ゴーンに劣るとも勝らない公私混同男の安倍晋三。1キ1スケ1ゾーは日本の恥だ。(終)

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