千二百二十五 プラユキ・ナラテボー比丘
平成三十戊戌
十月二十七日(土)
プラユキ・ナラテボー比丘の名は聞いたことがあるが、書籍を読んだことはなかった。先週の土曜に国会図書館に行き、初めてプラユキ・ナラテボー比丘の本を読んだ。貧困地域の開発僧になった話で、私にとり一番合ひさうな比丘かも知れない。しかしタイのお寺で副住職を務めるため、お会いする機会はなささうだ。

十月二十八日(日)
偶然、今朝のNHK教育テレビにプラユキ・ナラテボー比丘が出演した。私のメモ書きによると
・浄土宗長榮寺での瞑想会
・苦があるのと、苦しむのは違ふ。無明。反応ではなく対応
・宮澤賢治の「世界がぜんたい幸福に(以下略)」
・タイに二週間(自然、仏教)
・1988年出家。4:00読経 5:00掃除 5:30托鉢5Km 7:00に戻り準備 7:30食事  夕方読経と集団で瞑想(?対談者が比丘の話を折ったので、聞き取れなかった)  昼間は各自で瞑想、勉強
・外で瞑想すると蚊が多数。蚊のかゆみで集中できて禅定まで
・集中の中にも執着がある。目を開ける。手を動かす。気付き=サティ=念
・右手を立てる、上、お腹。左手も。右手を胸、外(上げたときと同じ位置)、立てて、膝。
・これだけでも効果があるが、動かすことに集中せず、一コマづつに集中
・例へば手を手を背中の後でじゃんけん。出さうとして出すのではなく、グーチャキパーのどれかに気づく
・雑念も色付けになる。受容。捨=無関心ではなく無執着
・一日一回10分から20分
・いらいらパワー10人でも、こちらが安らぎパワー10なら

以上のお話があった。放送の最初に、タイのプラユキ・ナラテボー比丘のところまで相談に来る日本人が多い。人間関係の悩みが多い。
もちろんプラユキ・ナラテボー比丘はきちんと相談に乗り、相談者も解決したと拝察する。ここで問題なのは、日本のお寺、神社、教会は何をやってゐるのか。日本のこれらの組織は、相談者がわざわざタイに行かないと解決しないほど無力なのだ。しかし改善の方法は幾らでもあり、当ホームページでもこれまでに何回も提案してきた。

十一月二十五日(日)
昨日は国会図書館に行き、プラユキ・ナラテボー長老の書籍、雑誌を読んだ。2009年「気づきの瞑想を生きる」を読んだ。サマタ、ヴィパサーナの説明と、ブッダはサマタを二人の師匠から学んだあと、ヴィパサーナを自身で始めて涅槃に達した話に続いて
タイでは、この二つのタイプの瞑想法のうちどちらを強調するか、どの対象を主に意識を向けていくか、内言(ラベリング)を用いていくかいかないかなど(中略)代表的な瞑想は以下の四つである。
1.「アーナーパーナサティ(出入息念)」瞑想法
2.「プットー(ブッダ)」瞑想法
3.「ユップノー・ポーンノー(縮み・膨らみ)」瞑想法
4.「サンマー・アラハン(正・阿羅漢)」瞑想法

ブッダの遺言となった「怠らず務めよ」について
言語では「Appama-da(不放逸)」(ここで-は文字の上に横線)という言葉が用いられている。「不放逸」とは、油断しないこと、ぼんやりしないこと、(中略)といった意味である。すなわち「念=気づき(Sati)」を失わない、ということを意味している。

DoではなくBe、つまり正しい「ありよう」と云ふ説明もあった。
プラユキ・ナラテボー長老が長年比丘を続けて副院長にまでなった理由は、タイ語を話すことにある。せっかく上座部の国に行っても、英語で話すと欧米の頭になってしまふ。だから帰国後にアメリカやカナダに行って還俗してしまふ人間が続出する。上座の国で還俗しても、仏法僧を守り続けるから問題はない。日本で還俗するのは出家中に支へてくれた人たちの好意への裏切りだ。プラユキ・ナラテボー長老は偉い。(終)

全宗教(百七十九の三)次、全宗教(百八十一)

メニューへ戻る 前へ 次へ