千百六十七 並川孝儀さんの著書「スッタニパータ」を賞賛
平成三十戊戌
七月十五日(日)
日本では、上座部仏教を扱った書籍の多くが、初期仏教(或いは原始仏教)、部派仏教、大乗仏教と分ける。だから日本の仏教探求者には、初期仏教に関心のある人が多い。スリランカ、ミャンマー、タイ、ラオス、カンボジアに伝はる上座部仏教は初期仏教に一番近いものだから、仏教探求者は上座部仏教を通して探求することが必要だ。最近、上座部仏教に逆らって初期仏教を探す人が現れたが、その人が亡くなればその人の主張も消えてしまふ。二千五百年間の歴史の重みには敬意を持たなくてはいけない。

私が初期仏教を探求する理由は、釈尊の時代には出家者と在家信者が激増した。それは易しい修行法だったからだらう。十二因縁みたいに複雑な原理に惹かれて、出家者や在家が激増するはずがない。例へば「十二因縁は流れが芸術的だねえ。一つ欠けても全体が滞ってしまふではないか」と感嘆して入門した人はゐないはずだ。十二因縁が十一因縁でも十三因縁でも大差はない。
もう一つ例を挙げると、四諦も仏教の根本原理と云はれるが、苦滅道の三諦でもよいし、集滅道の三諦でもよい。南伝経典を読むと、易しい原理と複雑な原理が混ざってゐる。易しい部分を集めれば初期仏教になるだらう。私はかう考へた。並川孝儀さんは別の方法を考へた。それはスッタニパータの最古層である第四章、第五章と、古層である第一章、第二章、第三章を比較した。並川さんの結論は、私が予想した内容と多くの部分で一致した。

七月十五日(日)その二
とは云へ、冒頭から一致しない部分が現れる。並川さんは
最初期の仏教では呪術や供犠は否定され、(中略)それは、ある面でバラモン教文化の否定でもあった。こういった禁止が、修行者以外の一般の人々の生活に密着した儀礼にまで及んでいたかどうかは別にしても(以下略)

呪術や供犠を否定すると、出家者は容易な瞑想法が無ければ心がめげてしまふ。信者は集まらない。まづ出家者の瞑想法は容易でなければならないが、それへの言及がない。次に瞑想で修業した比丘には法力が備はらないと信者が集まらないが、それへの記述もない。
並川さんが挙げたスッタニパータの最初の句は、苦行、ヴェーダの呪文、祭式などが
内なる疑念を超えない限り、決して清浄は得られない。

とするのであって、内なる疑念を超えることが必要で、それを超えた比丘の法力まで否定するものではない。二番目の句は
占いをせず、吉や凶などという判断を捨てた仏教修行者こそが、この世において正しく遊行するであろう

と占ひは否定しても、正しく遊行する者の法力は否定しない。次に
時代とともに(中略)仏・法・僧の三宝に帰依したり読誦することによって呪力が生まれると信じられるようになる。

として『中部経典』の「サンガーラヴァ経」に、女性がつまずいたときにブッダの名を三回唱へ、これが守護の願ひや除災だとする。釈迦在世時の師匠弟子の関係が、滅後に仏法僧となり二千五百年を経過した。その歴史を無視して並川さんのやうに三宝を
何ら呪術的な要素は見られず、むしろ否定ですらあった。

と断定することは正しくない。それはパリッタも同じだ。釈尊在世の時は師匠に訊けるからパリッタは重視されない。滅後はパリッタを経由して釈尊を想ふ。この違ひを以って在世と滅後に思想が変化したと解釈してはいけない。しかし在世時を探求することは尊い。

七月十五日(日)その三
輪廻、業報について、最古層では言及がないのに、古層では出て来る。一方で無我については、最古層と古層に違ひはないとする。涅槃について
最古層での用例を眺めたが、いずれも生存している人々が妄執を捨て、執着を乗り越えることによって体得される煩悩の消滅した寂静な境地こそが涅槃であると説かれている。

次に、古層について
内容的には最古層の用例とほとんど変わらない、しかし、大きく異なるのは(中略)「完全な涅槃(般涅槃)」が搬出することである。(中略)その意味は基本的に涅槃と変わることはない。

以上は生存中の涅槃についてで、死を意味する涅槃については
『スッタニパータ』には見られず、それ以後の成立と考えられる初期経典の『相応部経典』や『長老偈経』、『長老尼偈経』などの韻文資料に数多く見られるようになる。(中略)その契機とは、何といってもゴータマ・ブッダの死であると考える以外にないであろう。(中略)それ以後、涅槃の語は生と死の両義をもって適宜用いられるようになった(以下略)

釈尊の時代は、出家者や信者が激増したことで判るやうに、瞑想法が容易で効果的だった。そのためには四諦、十二因縁、輪廻、業報、涅槃。これらが実は瞑想法だったのではないだらうか。死後については無記なのだから。上座部仏教がここまで柔軟になれば、すべての宗教の教義も実は瞑想法だったと理解できる。(終)

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