千百四十六 役職流動理論
平成三十戊戌
五月二十七日(日)
私は昨年辺りから、役職名流動理論を考へてゐる。権力争ひや出世争ひは、役職名の固定が原因と云ふものだ。
例へば或る会社に名社長がゐたとする。後継を巡って副社長と専務取締役が争ったとする。前の社長は名経営者だったから社長を勤めた。後継者が同じ権限を引き継がうとするから権力争ひになる。副社長が引き継いだら社長代理、専務取締役が引き継いだら筆頭代表取締役と名乗り、権限も相応にすれば権力争ひにならない。場合によっては同時に社長代理と筆頭代表取締役人に任命してもよく、その場合はきちんと役割分担が必要だ。(以上
五月二十六日に既出)
会社の場合はそれほど困難ではない。法律では代表取締役がゐれば社長は不要だし、代表取締役は複数でもよい。最近はCEOと云ふ役職もあるが、私はこれに十年前は反対だった。欧米の猿真似だし、日本での実績が少ない。しかし最近は短期間ならあってもよいのか、と思ふやうになった。会長、社長、代表取締役の権限が曖昧になった場合だ。
五月三十一日(木)
役職でよくないのは地位に変化した役職だ。引退した社長を会長にしたり副会長にするのはその典型だが、これ以外にも例へば技術部に三つの課があるとする。三人の課長のうち一人を上位に見せるため部長代理兼課長にするのも典型だ。
以上が平成元(1988)年辺りまでの話で、その後のバブルとプラザ合意の円高からあとはもはや議論の対象外だ。まづバブルで担当部長、専門部長など役職が乱造された。プラザ合意の円高で大企業から技能職が激減し、役付きにならないと落後者であるやうな雰囲気になってしまった。それまでは定年まで平社員だったり係長だったりするのが普通だったし、技能職では富士通の場合、工師(係長と同格)が最高位だった。
六月二日(土)
役職名流動のとき、褒賞として役職名を上げてはいけない。例へば社長亡きあと副社長が代表を引き継ぎ社長代理になった。翌年会社の業績がよくなったからといって社長代理を社長にしてはいけない。それでは役職が地位になってしまふ。
理想的な組織でも役職は地位になりやすい。三国志に同種の話がある。蜀の将軍馬謖が街亭の戦闘で諸葛亮の指示に背いて敗戦した。諸葛亮は泣いて馬謖を斬り、自身を丞相から右将軍に降格した。職務内容を変更して右将軍になったのならよいが、おそらく職名だけだらう。自ら責任を取ったので短期では皆から称賛されるが、役職を地位にしてしまったことは、長期では蜀の組織に弊害を与へた。
六月三日(日)
もう一つ三国志の話をすると、なぜ諸葛亮がゐながら蜀は三国を統一できなかったのだらうか。三国志演義を読む限り、劉備が皇帝に即位してから振はなくなった。皇帝ともなると、面会の手続きが大変だし自由に意見を云へなくなる。意志の疎通を妨げる役職は有害だ。
だから結論として、役職は固定より流動のほうがよいし、役職が地位であってはいけない。(完)
メニューへ戻る
前へ
次へ