千百十三(その二) 1.多摩の日本酒、2.減った大衆食堂
平成三十戊戌
三月二十五日(日)多摩の酒を飲むきっかけ
私はかつて通勤定期券の範囲内で、休みの日は新小平で降りることが多かった。たまたま玉川上水を発見したからだった。当時は水が無く、空堀だった。その後、下水処理水を高度処理し、玉川上水を流れるやうになったが、それは後の話である。
一番多いときは土曜、日曜、祝日の度に雨以外の日は新小平から三鷹、新小平から青梅、三鷹から新宿、青梅から小作辺りまでと歩いた。雨の日は西新宿の水道記念館の資料室に行った。
昼食を取るついでに自動販売機のカップ酒を飲むことがごく稀にあった。ちなみに健康のため、昼に酒を原則として飲まなくなって二十五年くらい経つ。「原則として」と書いたのは、昨日みたいに、花見と荷物が重いため飲むこともまれにある。普段は昼に飲むことはない。
玉川上水を歩きながら飲んだカップ酒の銘柄は覚えてゐない。しかし多満自慢、澤乃井は含まれてゐた。
三月二十六日(月)多摩自慢
澤乃井は語感がよいから覚えてゐた。多満自慢を覚えてゐた理由は、多摩自慢と云ふアマチュア音楽グループがあった。「労働情報」と云ふ清水慎三さん(総評役員、日本社会党左派中執委員、信州大学教授を歴任)、市川誠さん(総評議長、労研センター、総評三顧問)の系統の雑誌に多摩自慢はよく載るので、名前だけ知ってゐた。実際の演奏は聴く機会が無かった。
三月二十八日(水)大衆食堂
新小平にはもう一つ思ひ出がある。お気に入りの大衆食堂があった。まづ大衆食堂については、その四年ほど前まで国道十七号に面した熊谷手前の大衆食堂によく行った。車を運転し熊谷方面に行くことが月に一回あった。浄化排水を何か所かで採取する仕事だった。そのとき昼にはよくこの食堂を使った。トラックを止められるやうに国道に面して広い駐車場がある。
転職後は熊谷の食堂に行く機会が無くなった。しかし四年後にある事情で新小平の大衆食堂に週二回くらいで一ヶ月ほど利用した。熊谷の食堂と似た雰囲気だった。
当時の新小平は駅の周辺に民家と点在する農地があった。たまたま十年ほど前に行く用事があった。街の変化に驚いた。マンションや家が乱立し大衆食堂は無くなってゐた。その後、今から数年前に都バス梅70系統に乗って偶然新小平の街を見た。今ストリートビューで見ると、熊谷は営業を続け、インターネットで検索すると経営者の代が替はり店を大きく変へた。新小平は既に無く、従って店の名前は判らなかった。無理もない。あれから三十年を経過した。私より二十歳くらい年上の夫婦が経営してゐた。既に引退するか亡くなって当然の月日だ。
三月三十日(金)減った大衆食堂
今では大衆食堂が激減した。尤も思ひ出せる大衆食堂は二つだから昔から多かった訳ではないかも知れない。減った分はチェーン店とコンビニが増えた。あと食堂ではないが携帯電話店が登場した。
大衆食堂に懐かしさを感じるのは、二店とも個人経営だった。従業員が対応する店は、チェーン店の場合、マニュアル化されてゐてそれはそれでよい。
個人経営で従業員を使ふ店はばらつきが大きく要注意だ。一番悪いのは私語で、お客さんの前で私語は絶対にしてはいけない。だからチェーン店が増えたのか。思はず思考を飛躍させてしまった。(完)
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