千百十三 丸眞正宗、特級1級2級のカップ酒自動販売機
平成三十戊戌
三月二十一日(水)丸眞正宗
かつて京浜東北線や東北線から池袋、新宿、渋谷方面に行くには、赤羽で乗り換へなくてはならなかった。乗り換へのついでに改札を出ると、酒屋の前の自動販売機で「丸眞正宗」と云ふ珍しい銘柄のカップ酒を売ってゐた。今は未成年者の飲酒防止のため酒の自動販売機は無くなったが、昔は「ワンカップ大関」など大手の日本酒が必ず自動販売機で売ってゐた。
赤羽近辺だけではなく、旧王子区(北区の北半分。元の北豊島郡王子町及び岩淵町)は丸眞正宗だったのだらう。
ちなみに昭和五十一年(私が二十歳になった)以降のカップ酒の価格は、特級210円、1級200円、2級190円くらいだった。
その後、日本酒の等級が廃止され、酒屋の店先から自動販売機も無くなったが、丸眞正宗の名はよく目にした。
その理由は埼玉の実家に行くとき、国鉄争議団支援のJR不乗車運動、バスカード応援、更には地域住民の足を守るためのバス応援を兼ねて、新宿から板橋本町まで都バスに乗り、中山道を7Km歩いた。
その変形として、新中野(ここまで通勤定期があった)から高円寺陸橋まで歩き関東バスで岩淵町まで乗り、そこから歩く方法もあった。丸眞正宗を醸造する小山酒造のすぐ近くが岩渕町のバス停だった。私の記憶では最初は木造かモルタルの古びた建物だったが何回か歩くうちに見えなくなった。インターネットによると平成14年(2002)元の場所に9階建て賃貸マンションを建設し、醸造所を敷地内に新築した。

三月二十二日(木)小山酒造の廃業
小山酒造は二年前に東京盛と云ふ銘柄も復活させた。大正時代に発売し1970年代に製造中止になった。当時は二級酒だった。
売り上げと利益は毎年伸びてゐる。それなのに突然二月末で廃業した。これで23区内で唯一の酒蔵が無くなった。理由は判らない。工場を壊してもう一棟マンションを建てればそのほうが楽だと考へたのかも知れない。だとすれば安易な経営方針だ。だから丸眞正宗を買ひに行くことはせず、当ホームページで紹介することもしなかった。
インターネットの噂では、杜氏不足が原因らしい。

三月二十三日(金)新しい酒造所をいったんは応援しようとしたが
新たな事が判った。二年前、23区内に新しい酒造所ができた。そこは幕末に開業し大正時代に廃業した。平成の世に再開しても実績がないし酒造組合にも加盟しないから、今までどほり23区唯一を名乗って構はないし、23区で唯一長く続く酒造所を名乗ればよい。
インターネットで調べると小山酒造は杜氏を廃止し、コンピュータで温度などを管理してきた。
杜氏が理由ではないとすると23区内に別の酒造所ができたことしか考へられない。しかし新たに酒造所を始めるとは、立派な心掛けだ。幕末に信州飯田の出身者が江戸で造り酒屋を始めたとある。
私の母方の家は信州松本で造り酒屋だったさうだ。明治時代に開智学校を開校するとき町民が多額の寄付をしたとある。私の曾祖父は開智学校の校長を務めたさうだからその親の代に多額の寄付をしたのだらう。
新しい酒造所に親しみを感じて調べてみると、どうも私が応援したくなる会社ではない。実績がないのに高額な日本酒だけを売り出した。

三月二十五日(日)小山酒造跡を訪問
昨日、小山酒造を訪問した。北本通りに面してメゾンマルシンと云ふ9階建てのマンションが建つ。一階は商店だが閉まってゐる。少し離れたところに小山酒店がある。マンションの住民が自転車で帰ってきたので訊くと、ここは酒店ではなかったさうだ。
小山酒店の先を右折すると、小山酒造の門が現れた。細井石柱の右側に小山酒造、左側が戸主の表札となってゐる。しかし中は別のマンションの駐車場だ。右側に「愛酒報国」と書かれた古ぼけた建物がある。たまたま駐車場内にゐた人に話を訊くと、4台分が小山酒造の駐車場ださうだ。
改築したのではなく、北本通りに面した部分はマンションに、敷地の手前は隣接するマンションに駐車場として売却したのでは。心が暗く沈んだ。
周囲を一周したあと、10時になったので小山酒店でマルカップ税込み227円と720ml瓶を購入した。720ml瓶には純米酒と書いてあるので話を訊くと、マルカップと同じものはカップの右側に陳列してあった。純米酒は1000円強、普通の酒は税込み864円だった。
この日は高輪の亀塚公園で花見を兼ねてマルカップを飲んだ。42年前の辛口で酸味のある味をかすかに覚えてゐたが、あのときの味だった。

三月二十五日(日)その二小山酒造を紹介する記事を発見
本日インターネットで「東京23区内唯一の酒蔵 小山酒造の酒造り」と云ふ五年前の記事を見つけた。dLaboと云ふスルガ銀行のページである。それによると
小山酒造は2002年に生産を効率化させるために醸造所を改築、すっきりとした外観の社屋になっています。もっとも、よく見れば上部には明治時代からの蔵の理念である「愛酒報国」の四文字が。門柱も創業以来の物がそのまま残されていたり、同じ敷地の中にはお酒の神様を祀る社があったりと、なにげないところに歴史を感じさせてくれるものが残っています。

なるほど私が昔の建物のままだと感じたのは、「愛酒報国」の部分を移したためで、建物自体は新しかった。たしかに丸の中に眞と書かれたシャッターは新しい。
迎えてくださったのは小山周社長と奥様の小山久理常務、そして製造責任者である深堀龍一さん。小山社長は32歳、深堀さんは29歳。経営者の若さにまずびっくり。「社員は20代、30代が中心です」と小山社長。聞けば、昨年他界された先代の時に古くからある杜氏・蔵人制を廃止し、スタッフの世代交代を進めたのだとか。23区内唯一の酒蔵は若くて元気溢れる会社のようです。

それが五年で廃業に至った理由は何だらうか。
「うちは私で5代目。創業者の小山新七はいい湧き水が出ているというのでここで酒造りを始めたそうです。」
小山新七氏は埼玉にある小山本家酒造の次男。(中略)「みんなが洋装した時代に頑として和服を貫いた、ちょっと変わった人物」であったとか。(中略)「愛酒報国」という言葉は酒税が地租と並ぶ国の主たる収入源であったこの時代ならではのもの。

昭和四十年代は赤羽まで都電が走り、北本通りの交通量はそれほど多くはなかった。住宅や工場が続く野暮ったい町と云ふ印象がある。志茂あたりは化学工場の臭気が漂った。戦前は和服が普通だったと思ふ。
関東大震災では煙突が倒れるといった被害もあったそうですが、第二次世界大戦では戦災をまぬがれ、(中略) 戦後から今日までの地価の高騰は固定資産税の上昇も招き、(中略)気がつくと23区内に残ったのは小山酒造のみでした。

南北線の開通はよくなかった。あれで赤羽駅近くの商店街が寂れ、岩淵では地価が高騰した。
「(前略)東京の水でつくったお酒なんかおいしくないんじゃないないの、と思われたりもするんです。」
そんなことをおっしゃる方にはぜひ飲んでいただきたいのが『丸眞正宗』です。吟醸辛口、純米吟醸、大吟醸、純米大吟醸…ものによって後味にキレがあったり、米本来のやわらかい甘味が口に広がったり、あるいは華やかであったりと、種類豊富なお酒はそれぞれに特徴的でお酒にうるさい人も納得できる美味しさです。(中略)低価格帯のお酒でも「注ぐ情熱は同じ」。

そんな立派な酒造所が廃業するなんて、残念なことだ。

三月二十五日(日)その三高輪に行った理由
赤羽岩淵を後に地下鉄で麻布十番まで行った。新しく出来た酒造を調べるためである。場所は昭和40年代まで都電の工場への入出場線が分岐する交差点だからすぐに判った。店に入ったが先客が2組4人ゐて混んでゐた。伝統的な酒屋や酒造所とは異なるので、そのまま店を出た。本来は新しい地場産業に喜ぶべきことだが、そのため一つ酒造所が廃業した。
(このあと高野聖宿場町跡の坂を上がり、亀塚公園でたくさんの近所、家族がそれぞれビニールを敷き花見をしてゐるので、ここでマルカップを飲んだ。ここの公園はよい雰囲気だ。この日はかばんに南伝大蔵経(清浄論の巻)の厚い本が入ってゐるので重かった。マルカップの分だけでも軽くしたかった。
このあと、福島正則の墓を探したが見つからなかった。時間がないので荻生徂徠の墓は中止し、大石良雄外十六名忠烈の跡を観たあと、予定どほり百円Lawsonで昼食を買つて食べた。
白金高輪から地下鉄で渋谷に行った。午後二時に講演を聴くためだが、エレベータ乗り場を探すのに時間が掛かり5分遅刻した。丁度、主演者が話し始めるときだった。
今回の都内散策は、地下鉄240円土日券があと二枚29日までのため、急遽企画した。小山酒造ではお酒の神社に参拝することもできた。聖坂と云ふ心地の良い二車線の道路も歩いた。思へば昔の道路は二車線だった。つまりどの道も心地がよかった。4車線や6車線の道路があってもよい。しかしこれらは街から隔離すべきだ。
それとは別に今月十一日に200円土日券を買ひ、二枚使用した。まだ日数に余裕があるが、渋谷まで1枚使用した。赤羽岩淵から高輪に来たときは麻布十番で降りて、渡辺綱の井戸を観たあと、電気通り、オーストラリア大使館の前を歩いた。
帰りは田町から渋谷はJRで170円。麻布十番から乗車すると歩かなくてはいけないし土日券で1枚当たり143円。歩いて27円安いだけだと選択する動機が弱い。そこで高野聖宿場町跡、大石良雄外十六名忠烈の跡を観て白金高輪から乗った。
)(完)

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