千八十九(第四部) 太田、みどり、桐生の発展のために
平成三十戊戌
二月十二日(月)
太田市は中島飛行機の企業城下町として発展し、現在でも人口は増加傾向にある。桐生市は織物の町として発展したが、昭和六十年(1985)辺りから人口が毎年千人(1%)づつ減少してゐる。みどり市は第一部で述べたやうに桐生競艇から桐生市の撤退により、桐生競艇の主催を桐生市の分まで引き受けた周辺町の合併により誕生した。藪塚本町は桐生競艇の主催組合に加盟してゐたが、太田市と桐生市の合併計画から桐生市が脱退したため、両者の中間に位置する新田郡尾島町、新田町、藪塚本町の三町のみが太田市と合併し、このとき主催組合から撤退した。
ここで第一の問題点は、藪塚本町の太田市合併は藪塚温泉(及びスネークセンター、三日月村)の発展に繋がったのか。太田市にとってはSUBARU(旧称、富士重工)の城下町が第一なのであって、三日月村を誘致したときのやうな藪塚温泉振興の熱意はない。
第二の問題点は、太田宿は周辺町村を合併し太田市となって拡大したが、名称は新田市のほうがよくないか。
第三の問題点は、みどり市は桐生太田の合併の時にいっしょに合併されることを前提に、みどり市と名乗ったが、いつのことか判らないし、太田と桐生の合併は、織物の町がSUBARUの城下町に合併されることで、産業としてはよいとは云へない。藪塚温泉と同じで無視され兼ねない。
二月十三日(火)
市の施設と財政だけを考へれば太田と合併する利点は大きい。しかし桐生、みどりの市内産業の発展を考へれば、合併しないほうがよい。
一旦合併したものを分離するのは至難の業だが、三つの町は太田市と合併して産業発展したか。ベッドタウンとしてなら太田市と合併する利点はある。しかし首都圏も都下23区外の各市、神奈川、埼玉、千葉から都心に通勤する人が多い。三つの町から太田市に通勤して何の不都合もない。
藪塚温泉については、市の公衆浴場を建設して市民に日帰りで行ってもらったり、療養所を移転すれば多少の産業振興になる。しかし太田、みどり、桐生の長期的特長化を図ると、SUBARU城下町の太田、自然観光と桐生ボートレースのみどり、織物と織物観光の桐生になる。藪塚本町は太田市からみどり市に移動したほうがよい。藪塚温泉の繁栄なしにスネークセンターと三日月村の繁栄はあり得ない。
二つの町についてもみどり市に移動し、新田義貞、徳川家発生の地として売り出したほうがよいやうに思ふのだが。本当に松平の先祖は得川(徳川)なのか謎解きを含めた観光売り出しである。
二月十四日(水)
みどり市は、まづ赤城市と名乗る方法がある。根拠は赤城駅だが、今は山頂部分の村が前橋市に合併したから、やや詐称気味だ。東赤城市なら問題ないが、一番良いのは赤城登山口市だ。渡良瀬渓谷を売り出すため、南渡良瀬市でももちろんよい。
かつて赤城山は有名な観光地だった。昭和四十年以降、国定忠治の人気急落とともに赤城山の人気も急落した。国定忠治は博徒だから、現在の暴力犯罪集団とは異なる。もう一つ、幕藩に歯向かひ関所破りで磔になった。国定忠治を、歴史上の一人物として売り出すべきだ。新選組を、殺人者集団とみるか武士道の鑑とみるのかと同じ原理だ。
二月十四日(水)その二
県道4号線(前橋市中心部から山頂)は、2.5Kmがつづら折りのほかは、ほぼ直線で二車線の良好な道路だ。
それに比べて赤城駅から頂上を目指すと、県道16号は5Kmがつづら折り、赤城神社の先は1車線から1.5車線で、既にバスは廃止された。
そもそもみどり市や桐生市から赤城山頂に行く一番最短の方法は、水沼駅から県道70号を上ることで、下からずっと登って上から1.5Kmの利平茶屋までほぼ直線だ。ところがその先が無い。
山頂にも県道70号はあるものの大沼の南を西に向かったのち再び消滅し、赤城山の中腹(水沼駅から見ると45度右回り)で現れたのちに関越自動車道の赤城ICと連絡し、利根川を渡り国道17号と連絡して終了する。つまり山の急斜面部分は登りと下りの両方に道路がない。
まづ考へられるのは、70号の二つの未開通部分を開通させることだ。しかし私は自然保護の立場からこの主張があるとすれば絶対に反対だ。しかし群馬県にも予算に限りがあるら、この主張は現在ではない。主張は無いが私が反対するのは、山頂には4号、16号のほか251号が沼田市に向かってある。これ以上、自然を破壊してはいけない。
前橋市の赤城山の山麓地区、桐生市、みどり市などの産業を振興するためには、自家用車の侵入を禁止すべきだ。富士山、尾瀬、上高地など前例はある。自家用車を禁止すればこれらの地域は乗り換へ客の食事、宿泊で潤ふ。利平茶屋から山頂までのロープウェイもいづれ復活できるだらう。
しかし自家用車禁止により、山頂地区の来訪者が減ってはいけない。既に書いたやうに国定忠治の歴史上人物としての再評価により、赤城山を有名にすべきだ。
このことは、足尾銅山鉱毒事件に見られたやうに産業を振興させるために自然を破壊するのではなく、産業を振興させるために自然破壊を抑制する転換点となる。歴史上の偉業となる。
二月十五日(木)
三日月村は、食堂に掲示してある保健所の営業許可証に産業工学研究所とある。インターネットの書き込みを調べると、昔は三日月村のホームページにも明記してあったさうだ。当時の藪塚本町が誘致したとあるから、原作者の笹沢左保、或いはテレビ会社、出版社と関係がある企業であらう。
今では木枯し紋次郎を知らない来園者が多くなった。木枯し紋次郎はフジテレビから昭和47年から48年に掛けて放送の後、昭和52年から53年に掛けて東京12チャンネルから新・木枯し紋次郎として放送された。
その後、平成2年(1990)にTBSから「年末時代劇スペシャル 木枯し紋次郎 年に一度の手向け草」が一回放送され、平成21年(2009)にはフジテレビから『金曜プレステージ 木枯し紋次郎』が一回放送された。
テレビの時代劇は、毎週放送するとワンパターン(水戸黄門の印籠や、暴れん坊将軍の「余の顔に見覚えはないか」など)化するため、年に一回放送するのはよいことだ。藪塚の三日月村を振興させるためだけではない。昔流行した文化を継承するためでもあり、テレビ会社にとって悪い話ではない。(完)
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