千八十九(第三部) 桐生競艇訪問記
平成三十戊戌
二月十二日(月)桐生競艇
新桐生駅を少し南下し、向かう側から来た老婆に道を訊き踏切を越えて右折した。ボートのエンジン音を聞きながら暫く歩くとボートレース場に突き当たった。
右回りに進むか、左回りに進むか。ナイター用の照明を見て左回りに進んだがこれは失敗だった。ボートレース場を2/3周する羽目になった。
自動ゲートに100円を入れて入場し、場内を隈無く見て廻り、外向発売所と南ウィングゲートの両方から一時退出もしてみた。
フードコーナーで、みどり市への支援を兼ねてウィンナードッグ210円(税込)を食べた。それは業者が儲けただけではないか、と云ふ気もするが業者が利益を上げればボートレース場も盛り上がる。今回食べた理由は三日月村で山菜ソバを食べ、たんぱく質を補強しようとおでん二串を追加注文したが、こんにゃくだった。たんぱく質補強のためだった。
私はギャンブルをやらないから舟券は買はなかった。午後4時の時点で場内は老人がほとんどで、わずかにカップルや子供連れがゐた。駐車場の車は群馬ナンバーが9割、それ以外に、高崎、前橋が若干と熊谷が1台あった。
ナイターなので、午後6時頃から若い人が仕事帰りによるのかも知れない。金融機関のATMに、三月から貸し出しができなくなるとあった。これは良いことだ。お金を借りてギャンブルをやってはいけない。
桐生ボートレース場で感心したのは、係員が場内を常時清掃することだ。とかくギャンブルは場内が乱雑の先入観がある。不断の努力が売り上げを8割伸ばし、黒字を維持したのであらう。

二月十二日(月)その二阿左美駅から帰路へ
帰路は阿左美駅から16時24分に乗車した。南ウィングゲートを一時退出したとき、予め調べておいたので道に迷ふことは無かった。太田駅に着いたとき、もう少しで館林だと思った。暫くして東小泉終点ですと車内放送があったので、間違へたことに気付いた。
私の祖父は館林の出身、ヘビは太田市の出身。しかも往路では館林検車区だ、館林機関区だとはしゃいだにしてはずいぶんずさんだ。間違へた理由は、三日月村でソバを食べた時間と桐生市内でバスに乗った時間を除き、あとはほとんど歩くか立ってゐて疲れた。
太田に戻るには25分待たなければいけない。館林行きは12分の待ち合はせで済む。と云ふことで館林に進むことにした。怪我の功名でこれがよかった。もし太田で乗り換へたら25分待たされるところだった。二年前の記事を見ると
太田は退屈な駅だ。45分ほど待ち合はせがある。館林ならホームのあちこちを歩くと、ここはかつて何だつたと想像して時間を費やせる。太田は橋上駅に改築したから、見るものが何もない。売店まで改札の外を向く。15分後に特急が来るので特急券の値段を改札に訊いたら510円だつた。太田から藪塚まで少ししか乗らないのに高い。45分待って各駅停車で薮塚に到着した。

と書いてゐる。SL「大樹」の説明が一階にあるが、あれは往路の乗り換へのとき読んでしまった。

二月十二日(月)その三小泉線と仙石河岸線
小泉線に乗って判ったことは、かつての貨物列車用の側線跡が敷地として残ってゐる。貨物列車は操車場や貨物駅だけではなく、途中でも時間調整のため待ち合はせる。さうしないと操車場や貨物駅で入れ替へがかち合ふためで、例へば武蔵野線では、西国分寺、西浦和、東浦和駅などに側線や中線があった。小泉線にその形跡を見ることができた。
私の記憶では昭和五十五年頃に、新聞で小泉線の支線が廃止されたニュースを読んだ記憶がある。インターネットで調べると、西小泉の先に仙石河岸線の新小泉駅、仙石河岸駅があり、昭和五十一年(1976)に廃止された。貨物列車は平成八年(1996)に廃止された。
私がこの記事を覚へてゐたのは、この廃止で熊谷線との連絡計画が無くなったためだ。かつては熊谷駅から妻沼まで東武鉄道熊谷線があった。上熊谷では高崎線から片亘り線で東武鉄道、東武鉄道から片亘り線で秩父鉄道に繋がってゐた。熊谷線も昭和五十八年(1983)に廃止された。(完)

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