千四十五(その二) 1.地元しか知らない商店街、2.組合事務所までの歩行道を辿る
平成二十九丁酉年
十一月七日(火)
月曜の昼休みは、淀橋庚申堂の一本手前の道から、羽衣湯を経由して神田川を菖蒲橋で超えて、山手通りまで行った。途中にほとんど知られてゐない商店街がある。なるほど私がこの道を好きなのは商店街が理由だった。あと菖蒲橋を超えると「あやめ橋通り」と書かれた標識がある。「しょうぶばし」ではなく「あやめばし」だと判った。

十一月九日(木)
火曜は、朝出勤の時に中野坂上から山手通りを少し南下ののち小道を左折し、菖蒲橋、羽衣湯、久遠寺経由で出勤した。地元しか知らない商店街は商店が点在することが目立った。残りは店を閉じて新築時に住宅化したのだらうか。
昼休みは山手通りに直行し、向かひ側のお寺に参拝しようと思ったが、寺の位置を間違へて不発に終り、中野坂上まで歩くに留まった。
水曜は山手通りに直行し、向かひ側の道を小学校前まで別の道を往復する予定だったが、小学校の手前で右折したため不発に終った。別の道を往復する理由は、鍋屋横丁から右折して堀之内妙法寺に行く参詣道を逆に辿ると、中野坂上方面に至る。しかし途中で道が南方に遠回りするため、卓球場の二本先か三本先を左折して青梅街道に出るのが、私の中野坂上への定期航路だった。
組合事務所に行くときは南方に遠回りしたほうが近道なのでそのまま進んだが、小学校のところで南に折れて次の小道を東に折れて行き止まりを一本南の小道を進むと山手通りに出る。これが組合事務所への定期航路だった。
これとは別に象小屋跡の前を通る道を、立正佼成会のお会式を見に行くとき始めて歩いた。この道は小学校の横を通るので、両方を組み合はせて往復別の道を歩く予定だった。

十一月十日(金)
以上の流れとは別に、60階マンションの中庭が公開広場となり、けやき橋商店街がかつてこの辺りにあったことを知った。大通りに面した入口には「けやき橋商店街」と書かれたアーチがある。今は大通りに面した信用金庫の支店もかつては商店街の中ほどにあった。
けやき橋は、おそらく神田川助水に掛かる橋だったのだらう。今でも神田川には助水の落水口がある。

十一月十八日(土)
今週は月曜が花伝舎の先辺りまでと近場(ハノイ旅行の余韻で帽子を旅行かばんに忘れたため)、火曜が新宿三井ビルの音楽会だったので、三回中野区本町方面に出掛けた。
水曜は象小屋跡の道を経由して小学校前、そのあと青梅街道から二本南側の道で山手通りに戻った。木曜は成願寺に参拝し境内を散策した。ビルに戻ったらちょうど音楽会が終ったところだが、一旦心が離れると鑑賞したくは無くなった。金曜は青梅街道から一本南側の道経由で小学校まで行き、その一本南側(西側に行けない道一本を除く)で山手通りに戻った。
昼の散歩は、タイ料理、野村ビルなど主題を決めて数日間実行することが多い。今回もその一環だが、青梅街道の南側は特に思ひ入れがある。鍋屋横丁の中間を右折すると堀之内の妙法寺に至る。かつて鍋屋横丁とこの右折道は参道だった。
江戸時代前期の鍋屋横丁ができる前は、右折道の反対側、つまり左折道が鍋屋横丁の代はりの旧参道だった。青梅街道から一本南側の道とはこの道のことで、会社が鍋屋横丁にあった時代に、回数券を買ったなどの理由でこの道を中野坂上まで歩いたことが10数年間で30回はあった。同じやうにこの道を西新宿にあった組合事務所まで歩いたことが10回ほどあった。
左折道は中野坂上の手前で突然右に曲がり青梅街道から遠ざかるので、その手前の道、または公開されたマンション敷地内(店舗があるため)を左折して青梅街道に出た。かつては角に銭湯があった。
組合事務所に行くときは、青梅街道から遠ざかるほど近道なのでそのまま直進し、しかし小学校の先は青梅街道に近づき、つまり組合事務所から遠くなる。だから小学校を右折して二本目を左折するのが近道だった。

ハノイ旅行の余韻と云へば、今週は坂上バーガーで三回昼食を購入した。最近は毎週、坂上バーガー1回、100円ローソン2回、天ぷらそば2回を守ってきたが、旅行の時にローソンカードを家に置いたまま一週間が経過した。(完)

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