千三十五(その五十一、兼) 鈴森さん(仮名)の退職
平成二十九丁酉年
十月十五日(日)
一昨日で鈴森さん(仮名)が退職した。私が事業本部の事務部門に移って数年して鈴森さんが同じ部署に来た。このころの部長は私が二十数年前にコンピュータ専門学校の教師をしてゐたときに、今の会社から非常勤講師として週に何時間か来た。当時は卒業生を採用するため非常勤講師を出す会社が幾つもあった。だから本来は部長と仲がよいはずだが、実際は違った。
私が二年前まで授業を行った特別支援学校について、別の人に変へると云ひ出したことがあった。授業時間は週三日午前だが、これは東京都教育委員会の市民講師制度の時間数に上限があるためだ。教員免許のない人(全員さうだったが)は特別講師として免許制限の解除もしてもらった。これを社内で教員免許(当時は更新制度が無かったので持ってゐる人もゐた)のある人と交換して、週五日にしようと云ふのだ。実際には市民講師の上限だから、免許の有る無しは無関係だ。だからこの話は無くなり、私がその後も市民講師を続けることになった。
私がこの話を不愉快に思ふのは、この部長に向かって「部長は別の人にやらせて、あなたは別の仕事をしたらどうですか」と言ったら、この部長は不愉快だらう。この部長は同じことを私に言った。仕事には誰にでもできるものと出来ないものがある。授業は下手でよいなら誰にもできる。しかし私はさう云ふ教へ方はしない。それなのに失礼だ。
だからと言ってこの部長と仲が悪い訳ではない。衆生本来仏なり、とは白隠禅師の語だが、私も人を恨んだりはしない。ただこの部長は人間関係が冷淡なので、私ともそれ相当の関係になっただけだった。もし向かうがニコニコして話しかけてくれば、私も顔だけではなく心からニコニコして対応した。そんなときに鈴森さんが来た。

十月十五日(日)その二
鈴森さんは製造会社のIT部門に転職するさうだ。五十代前半なので心配だったが、良い転職先が決まってよかった。鈴森さんは昨年末から仕事が無くなってゐた。臨時で忙しいプロジェクトに一か月くらい従事することがあったが、その後、長く空いてしまふ。就職コンサルタントとの面談を勤務時間外にずいぶん行った末の転職だった。
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私は不当解雇、退職勧奨、嫌がらせ退職には絶対に反対だ。さう云ふ会社は倒産させて構はないから反撃しろと主張してきた。もちろん倒産すれば多くの人が路頭に迷ふし、不渡り手形で多くの取引先にも迷惑がかかる。実際には落としどころがあり、双方が円満解決するのだが、経営者の中には自分の力を過信し大変なことになる場合がある。私の周りで労働争議が導火線となり倒産した例が二つある。どちらも学校法人を名乗る団体で、一つは全国一般東京労組C学園分会、もう一つは私が二十五年前に勤務したE学園。労働争議ではないが、お友達濡れ手に粟方式の学校法人があったりすると、ここも倒産に至るのか落としどころで解決するのか。
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勤務時間内に転職コンサルタントと何回も面談し、勤務時間内に転職先と面接する。これは問題ない。本人と勤務先と転職先の三者が喜ぶのだからよいことだ。
実は私にも二十年ほど前に転職紹介会社から電話が来たことがある。しかし状況はまったく異なる。まづ勤務時間後に会ひたいと云ふ。私は転職を希望しないのに電話を勝手に掛けてくるからには、まづかう云ふ会社がありますと紹介すべきでせうと云ふと「だからその点を含めて話し会ひます」と云ふ。なぜどこの馬の骨とも判らない輩に相談しなくてはならないのかと思ったが、そのことは口にせず断った。あ、この表現は不適切だった。馬の皆さんに深くお詫びしたい。あんな連中と一緒にされたら馬も不愉快であらう。
更に不愉快なことがあった。この話を社内でしたところ「それは会社が辞めさせようとしてゐるからだ」と嬉しさうに云ふ人がゐた。この男が張本人の可能性が高かった。

十月十六日(月)
鈴森さんは事業本部の事務部門に移転してから、返ってきたPCにOSをインストールし整備する仕事に従事した。これだけだと時間が余りさうだが、更新プログラムに丸一日掛かると云ってゐた。
数年して鈴森さんは事務本部のセキュリティ管理部門に移転し、私が鈴森さんの仕事を引き継いだ。私の場合は週二三日学校で教へるので、仕事量は合ってゐた。それ以外に事業所内から上がってきた共有フォルダやメールアドレスなどの設定依頼を事務本部に上げるのだが、鈴森さんは意外と融通が利かず申請者に書類を書き直してもらふなど苦労した。私が思ふに事業本部のセキュリティ責任者が許可したのだから事務部門はその通り設定すればよい。それなのにいろいろ文句をつけるので対応が大変だった。
しかし鈴森さんが定型化した(1)OSの入れ替へ方法(OSだけCDからインストールし、ドライバなどはインターネットからダウンロードしたものを取り込む)、(2)メモリやハードディスクの付け替へで判らないときはインターネットで調べる、など今年一月の会社移転まで私はこの方法を踏襲した。
この業務はソフトウェア技術者と云ふよりハードウェア技術者なので、私もハードウェア技術者も経験したかなと満足した。

十月十八日(水)
私が業務を引き継いだときは、デスクトップ型が多く、ミニタワー型もあった。場所を使ふから隣の部屋の大型のテーブル一つ分が作業場所だった。通信機器、特殊なケーブル、工具なども多くテーブルの上はほぼいっぱいだった。オフィスに机もあり通常の業務はこちらでやり、パソコンの底を開けたり、ディスクを交換したり、CDからOSを入れる作業を大型テーブルで行った。
だんだんノートパソコンが増えてきた。書記のノートパソコンはメモリを増設するのにも基板を外したり大変な作業だった。そのうち簡単に好感できるものが増え、メモリやディスクの値段が下がったから、交換するより新品のパソコンを買ひ替へたほうが易くなった。
私の作業場所も、オフィスの自分の机と隣の机だけになった。

十月二十八日(土)
鈴森さんで気に入ったのは、十歳年下なのに私にため口で話すことだ。私は全然気にしなかった。二十年前にも一人ゐて迫山(仮名)さんと云ふ技術者だった。私はかう云ふ人は嫌ひではない。余談だが栃木、群馬以北は敬語が無かった。つまり東国では武蔵、相模が異常だ。それに対して金田一京助が反論したが、それは例外を述べただけで反論になってゐない。迫山さんはそののち八年ほどして退職し、その後のことが心配だ。鈴森さんは製造業に転職なので安心だ。(完)

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