千二十九 恐ろしいことに気付いた(創価学会と日蓮法華系全宗派は同じだ)
平成二十九丁酉年
十月一日(日)
二週間ほど前に、日蓮の曼荼羅について恐ろしいことに気付いた。日蓮ご在世当時と滅後の直弟子、孫弟子の時代までは、曼荼羅は過渡期のものと考へられてゐた。日本中に法華経が広まった暁には、仏像を安置し神札を祭る。これが当時の教義だった。

創価学会は、昭和四十五年までは布教のための組織だった。だから戸田城聖は、広宣流布(布教が完成)の暁には創価学会を解散する、とまで発言した。今回の特集は、創価学会が布教を止めたのに解散しないのはおかしいではないか、と批判することが目的ではない。本尊問題を考へると、そもそも日蓮法華系の全宗派は布教が目的の組織だ。とは云へ、創価学会も全宗派も解散する必要はない。それを論じたい。

十月二日(月)
まづ広宣流布の暁に仏像を安置することは、あまり多くは無いが当時の文献に書かれてゐる。あまり多く無い理由は当然だったからだ。例へば創価学会が所属してゐた大石寺系(日蓮正宗)の宗制宗規に、法主以外で本尊を書写した者は顰斥(僧籍剥奪)とある。これは仏教上誰が本尊を書写してもよいのだが時の貫首が書写することが礼儀だししきたりとしてきた。一方で棟札は昭和三十八年くらいまでは普通の僧侶でも書写することができた。棟札を普段書写し練習になるから、貫首になったときすぐに本尊を書写することができた。宗制宗規に、念仏を唱へたら顰斥(僧籍剥奪)とは書いてない。これは当然だからだ。同じやうに広宣流布のときに仏像を安置し神札を祭ることは当然だからいちいち書いたりはしなかった。

それにも関はらず、私はこれまで曼荼羅を安置する寺院を観るとほっとした気分になった。それは佐渡流罪の後は曼荼羅を本尊としてきたにも関はらず仏像を安置する寺院が多いからだ。国柱会の会員が拝む曼荼羅は、下に日蓮在御判と書かれる。これは望外の喜びだった。身延系の僧侶だった田中智学がなぜ日興門流の本尊を拝むのか。これは田中智学の見出した佐渡始顕本尊の写しにさう書かれてゐたからだが、田中智学は明治維新後に大石寺の教義を聞きこれは駄目だとすぐ思った。一方で日興門流に身延では失はれた日蓮ご在世の教義が残ってゐることに驚愕し、大石寺の兄弟寺だった北山本門寺とは親密になった。国柱会の講習会を北山本門寺で開催したし、富士の国立戒壇を主張した。

十月四日(水)
帰省したとき実家から10Kmほどにある柳澤宏道師の法華教会を参詣したことがある。京都要法寺(日蓮実宗)の末寺で、日興の弟子日尊の門流だ。年末に突然おじゃましたのに暖かく迎へていただき歓談することができた。そのとき宏道師が「造仏できる」と云はれたので、私は広宣流布の暁の話だ、日尊門流だからそのやうな主張もある、と特には気に留めなかった。
今から四十年前に、正信会の大谷悟道師が「本尊の配置が大聖人の教義を現してゐると思ふ」と仰ったことがある。私は今でもこの主張が正しいと思ふ。だから中央に題目、その下に日蓮と大きく書かれ、脇に釈尊が小さく配置された教義が正しいのだらう。尤も日蓮滅後は、日興の門流は日蓮の部分に日蓮在御判、他の門流は自身の日号を書くから教義に多少の相違を生じるが、釈尊が脇士であることに変はりはない。

しかし曼荼羅が布教完了までの一時的なものだとしたらどうなるだらうか。日蓮本仏論は福重照平が昭和二年に執筆した本の題名だが、このやうな題名を付けること自体、宗内に日蓮本仏と云ふ言葉が無かったからに他ならない。日蓮本仏がこのとき以降、或いは創価学会が戦後に布教活動を開始した以降だったとしても、実質は日蓮本仏に近いことを二十六世日寛が云はなかった訳ではない。日寛が云ひ始めた理由は、当時の大石寺は京都要法寺と通交が復活し要法寺系の僧が連続して貫主になった。そして十七世日精は造仏を行った。これは日達師が貫主となってからは長い間、禁句だったが、正信会がこの問題を提起し、造仏が行はれたのは(1)大石寺でも、(2)末寺のみ、(3)日精が貫主になる前まで、で論争になった。
日寛の主張は造仏を廃止し曼荼羅を復活させるためのものだから、その曼荼羅が一時的なものだとしたら、日寛の主張も布教完了までの一時的なものになる。

十月五日(木)
広宣流布はすぐだと当時の人は考へた。だから鎌倉幕府が滅びた直後に大石寺第三祖日目は老躯をおして天奏を目指し美濃の垂井で遷化した。当時は飢饉、疫病、元寇が続いたから、広宣流布がすぐだと考へるのは当然だ。
似た事情は近代にもある。明治から戦前までは列強が日本、中国、タイを除くアジアアフリカ地域を植民地にしたから、布教で国難を解決しようと考へる人は多かった。戦後も東京オリンピックの前まではそれほど豊かではなかったから布教が流行した。翻って現在はどうか。飢饉、疫病だと騒いでも誰も相手にしない。そもそも八百年弱を経過して広宣流布が達成できなかったのだから今後も永久にできない。
ここで現在の繁栄は地球滅亡と引き換へだから化石燃料の使用を停止し、豊かさを減少させてから布教しようとする方法がある。しかし日蓮関係者でそのやうなことは誰も云ないではないか。
このまま放置すると日蓮は嘘つきになってしまふ。そればかりか法華経が後世の作であることは明らかだ。それではどうすればよいか。

十月六日(金)
長い期間、特定の圧力を受けることなく続いたものは伝統だ。既得権派や守旧派は特定の圧力に含めた。これ以外に特定の圧力として権力がある。江戸時代の士農工商や参勤交代は長く続いたが、これは幕府の権力と云ふ圧力があったからだ。
大乗経典を仏説とするのは伝統だ。その環境のもとで多くの宗派が生まれた。だからこれらの教義は信仰すべきだ。日蓮の時代には広宣流布がすぐ完成すると考へたがこれは飢饉、疫病、元寇と云ふ環境下で発生した教義であり、しかしその後の平時にも現在まで続いたのだから、これも尊重すべきだ。大石寺の戒壇の御本尊も今では日禅授与の紙幅の本尊を模刻したことが明らかになったが、当時の人たちが戒壇建立を願って模刻したものがいつの頃からか日蓮直作と伝へられたと云ふことで、戒壇のご本尊信仰も尊重すべきだ。当時の人たちが曼荼羅永続論になったのは広宣流布がすぐに達成できなかったためで、その環境下での教義が現在まで続いたことも尊重すべきだ。

十月七日(土)
日蓮正宗に手塚寛道師と云ふ僧侶がゐた。昭和三十年代からその碩学は名高く、中野教会主管堀米泰栄師(後の大石寺六十五世信乗院日淳)が宗内筆頭末寺に栄転のあと主管を継いだ。当時創価学会は中野教会に所属(例へば池田大作氏のお守り本尊は中野教会信徒池田大作と書かれてゐる)したから手塚寛道師の宗内での期待度が伺はれる。堀米泰栄師は伊那の出身だが、手塚寛道師の阿闍梨号は安曇阿闍梨だから、同じ信州の出身なのだらう。
手塚寛道師は久米川辺りの寺院住職を兼務していたが、後に中野教会とともに退任し東大和市に自宅を造り青金社と云ふ出版社を名乗った。日蓮正宗と敵対した訳ではなく、宗門の機関誌「大日蓮」に青金社の出版物の広告がよく載った。公明党元委員長石田幸四郎さんのお兄さんに石田次男さんがゐる。国枝さんと云ふ公明党文京区議を長く務め、後に正信会の大宮正因寺の講頭になった人がゐた。その人が云ふには真偽不明だが「戸田会長は石田次男を次の会長にしようとしたが、池田が会長になった。石田はいじめられて白髪になった」とのことだった。国枝さんはいい人だったが、一つだけ嫌なことがあり猟銃が趣味だった。動物は仕留めなくては駄目で手負ひで逃がしてはいけないと云ふところが唯一の救ひではあったが、仏教者が生き物を趣味で殺してはいけない。大乗仏教の欠陥なのか、日蓮の教義の欠陥なのか、大石寺の欠陥なのか。
その石田さんが手塚寛道師の学習会に参加してゐたさうだ。日蓮正宗の僧侶として寺院や教会を勝手に作ることは出来ないが、自宅の仏間を本堂として法要、学習会を行ふことは問題ない。私も後に青金社の法要、学習会に参加するやうになったが、石田次男さんは既に顔を見せなかった。正信会の起こした管長地位裁判(大石寺六十七世阿部信雄は血脈を受け継いでゐない)に加はったため正信会といっしょに顰斥となった。それからは上妙寺青金社と名乗った。
私はその手塚寛道師に「広宣流布のときは神札を祭ってよいのですか」と質問したことがある。寛道師は「大聖人が仰ったことなので、すべての人が、一人残らず信徒になったときには、祭ってもよい」と答へられた。私が「広宣流布に事寄せて大聖人は禁止されたのでせうか」と云ふと、寛道師はすごく喜ばれた。しかし二番目に云ったことは私が考へたのではない。当時、日蓮正宗の宗務院が、正信会の日精造仏問題に反論して大聖人は広宣流布に事寄せて造仏を禁止されたと主張したので、これを神札問題に流用しただけだった。
私が思ふに、広宣流布に事寄せて禁止したのではなく広宣流布は必ず達成すると大聖人は確信してゐた。だとすれば戒壇が建立された暁には造仏すべきだし神札も祭るべきだ。手塚師は突然質問されたので一人残らずと答へたが、日蓮正宗宗務院は充分に時間のある中で書いたのだから正信会への適切な反論ではない。しかしすべては七百数十年を経過しても広宣流布が達成できないことが原因であった。

十月八日(日)
外圧によらず長い間続く伝統は尊重すべきことにより、日蓮法華系各宗派団体は共存することができる。更に、すべての礼拝、読経、学習などは止観(瞑想、座禅)の一つの方法と悟ることで、すべての宗教は共存することができる。(完)

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