千三十 久しぶりの佼成図書館訪問記『精華会の成立と展開』『上代日興門流教学の一研究「尊師実録」を中心として』
平成二十九丁酉年
十月二日(土)
一昨日は十ヶ月ぶりに佼成図書館を訪問した。今年一月に会社が西新宿に移転し、佼成図書館が二駅遠くなった。定期券を一駅先の中野坂上までにしたのは、通勤途中に100円ローソンに寄って昼食を買ふためだが、土曜に佼成図書館に行くためでもあった。今まで暑かったので見送ってゐた。佼成病院の跡はバス駐車場がほぼ完成した。
佼成図書館では継命(正信会機関紙)と、創価新報(XX会青年部機関紙)のXX宗批判の部分を読む。あと大僧X(XX宗宗務院機関誌)とX宗新聞(X宗機関紙)も読むがこれら二つは退屈で途中で読むのを止めることが多い。特に大僧Xの法主説法はまったく読まない。阿部さんと早瀬さんはXX会が大きくなったあとに修業を始めた人たちなので、読んでも役に立たない。
継命に野村学道さんの昔の話が載ってゐて、これは興味深く読んだ。昨年最終号と、今年1月の2号に載り(つづく)とあるが、続きはなかった。或いは著作権の関係で抗議が来たのかも知れない。30年程前に継命が創刊され柿沼日明さんの書いた小説を掲載したが、著作権の抗議が来て途中で止めたことがあった。

十月五日(木)
法華仏教研究と云ふ雑誌がある。これは年に二回しか発行されないがこれもひと通り目を通す。内村琢也さんの「精華会の成立と展開」と云ふ論文が目に留まり、コピーを取った。私は今まで佼成図書館でコピーを取ったことがなかったので、記念すべき日となった。
「鎮守統一運動を事例として」と副題が付き、精華会を田中智学の指導で鎮守統一運動を行った前半と、田中智学が亡くなった後に石原莞爾の指導で東亜連盟運動に参加した時期に分ける。この論文は前半の時期を対象とする。

十月七日(土)
まづ昭和初期の国柱会の停滞について、昭和二十四年に掲載された精華会機関誌「王道文化」の柳田捷磨「精華会の成立と使命(上)」を引用し
聖祖大聖人の真精神を明治以後の現代に活現された田中智学先生六十年の僧X主義運動は(中略)を頂点として、大正末期から昭和の初めにかけて、ようやく流通分時代に入り(中略)政治・思想・芸術等の各面にわたる華々しい活動が展開されていたが、満州事変以後の時代の大きな転換と共に、先生一期の御運動としても終末点近きを思わせ昭和七、八年頃からは(中略)『師子王全集』の編纂を用意せらるに至った。(以下略)

流通分(るづうぶん)とは経典を序分、正宗分、流通分に分けた三番目で終盤部分に当たる。智学の活動が大正末期から政治、思想、芸術等に移り、更に昭和七年から自身の全集編纂に移った。柳田さんが智学を批判する筈はないが、続いて
時代に即応した政治運動や、思想運動が、先生のご令息方の指導によって新生面を拓いていたが、純宗教活動としての(中略)溌剌さは失われて、その活動的生命はたそがれにあったことは否めない。

とご令息方の活動には疑問を呈した。私は智学自身の晩年について変質を感じたことが一つあった。それは著作の最後に源智学だったか藤原智学だったか、先祖の威光を借りる名乗りを一つだけ見た。智学が名乗るとすればX宗僧侶だったが布教をしないXX宗を批判して還俗、明治時代に即し天皇論を展開して布教、本門宗総本山(現、X宗霊跡寺院大本山)の北山本門寺と通交し国立戒壇を主張し三保に最勝閣を建立。これらこそ智学一生の大偉業だ。先祖なんかを自慢してはいけない。
智学は最勝閣を自身最大の功績と思ってゐたのかもしれない。作家Xが妹トシの遺骨を納め、北原白秋がその絶景を称へた。だから港湾工事で眼前が埋め立てられたときは落胆し、これで日本は罰を受けるだらうと予言した。大正末期から活動が変ったのは、最勝閣が原因ではないだらうか。

十月八日(日)
柳田の書いた精華会の結成背景のなかに最勝閣のことも書かれてゐる。
国柱会ではその昔、三保の最勝閣本部時代程の華やかさはなかったが、一ノ江に本部が遷ってからも、毎夏、相当の規模の講習会が開かれて(中略)この集りがおのずから、全国青年協議会のようなものを形づくるのであったが(中略)まだ盛り上がる力も足らず時が来なかったものか各地に帰ってしまうとそれなりになった。

その後、東京同人会に田中智学が一ノ江精華会と命名し、精華会が国柱会の青年部組織の名称となった。精華会は鎮守統一運動を展開した。田中智学の鎮守統一論とは、全国各郷土の鎮守を
皇祖天照大神国祖神武天皇、国体の権化たる明治天皇の三霊を合祀

に変更することだった。因みに私は全国各地の伝統破壊となる鎮守統一には反対だ。精華会は昭和十二年の事業方針に
我が精華会は(中略)本門戒壇建立の第一歩ともいうべき鎮守統一運動に邁進せんとす

と書いた。このころ精華会会員は四百三十二名。こののち精華会は田中智学の死を境に、石原莞爾を指導者に東亜連盟運動に参加して行く。国柱会全体の会員数については章末の(注)に
仏立講と違って、個人的な現世利益を説かなかった国柱会の会員数は、智学在世中に三〇〇〇を超したことはなかった

とある。

十月二十一日(土)
立正大学の発行する「僧X教学研究所紀要44号」誌に『上代日興門流教学の一研究「尊師実録」を中心として』と題する堀江瑛正さんの論文は、その後半部分の『(二)「日尊上人仰云」の記述』を複写した。複写した理由は、僧△とその弟子でX寺三祖日目が遷化ののち、北山本門寺二祖日代と日仙の間に方便品の読不読論争が起きた。その結果、日代は北山本門寺を追ひ出され新たに西山本門寺を建立し、日仙は讃岐に移転した。この論争について「日尊上人仰云」は(1)西山、(2)X寺と北山、(3)日仙、(四)日尊の四つを紹介する。原文は返り点など漢文体の部分が多いので堀江さんの解説を引用すると(1)西山は
河合の人々の義は(中略)方便品は一往は所破のために読み、再往内証の実義は読む。それは、本門に即して迹門である故に、迹門であっても本門になる理が存在しているので読むのだとしており、内証に所破はあるはずがないとしている。

私個人としてはこの説に賛成だ。次にX寺と北山本門寺について
上野・重須の人々については(中略)方便品は所破のために読むべきであるとして、それは訴訟の時に相手方の訴状を読んだ後に陳状を読む様に方便品は訴状、寿量品は陳状であるとしている。そのため、方便品は読んで捨てるものとし、方便品に得道があるというのはあたかも念仏無間のようであるとしている。

私はこの主張には絶対に反対だ。こんな主張を認めたら、寿量品さへ読めばその前に、浄土三部経だらうと大日経・金剛頂経だらうと所破のために何を読んでも良いことになる。
(3)日仙については方便品を読まないと主張したのだから、読む理由は無く
そもそも御書によると方便品は読むべきではないとしている。これに対して、菅原関道氏は(中略)御書に迹門を読むべからずとは説かれておらず、迹門無得道が説かれているゆえに読まずという発言の誤伝であると推測している。

僧X、僧△の時代には方便品、寿量品を読んだのだから、それを改変する日仙は伝統破壊であり正しくない。しかしその門流が高瀬大坊(予讃線に高瀬大坊駅があったが、二十三年前にみの駅と改称されたことは本日知った。正式寺号は讃岐本門寺)として現在に伝はり、XX会が在籍した時代のX寺末の本山として昭和五十五年頃に仙流院日文上人が遷化した。仙流院の名はまだ私の記憶にある。もう一つ記憶にあるのは、檀家が日文師に上人と呼んでいいですか、と質問し日文師がいいですが亡くなってからですよと答へられた逸話がある。日文師は権僧正だから遷化ののち上人号が追贈される。しかしX寺では上人と書く。最近のX寺機関誌「大僧X」を見たら、権僧正の葬儀の記事に贈上人とある。上人号を追贈したら上人で、贈上人だと贈上人号の追贈になる。X寺の貫首だけ(XX会破門の前までは貫首と総講頭の布教隊長X氏だけ)が偉いとするから、贈上人と云ふ奇妙な名称が出て来る。僧Xや僧△の時代に贈上人なんてなかった筈だ。

十月二十二日(日)
最後に(4)日尊の主張は
迹門を破して本門を立てる事は僧X聖人の出世の本意であり、(中略)方便品は迹門であるため、本門の行者の読不読等の疑念を懐く者もいるが、聖人の自行行業の根本を伝えるところを考えると、今の方便品・寿量品・首題を唱える事は三法妙の行体であるとしている。

私は日尊の主張にも賛成だ。三法妙については
(漢文のため原文省略)との文から聖人自筆の三法妙の図が存在したと考えられる。それについて大谷吾道氏は、聖人御真筆中には『一代五時図』やいわゆる吊り物といわれる経論釈の内容を図示したものも多くあるため、三法妙を九法妙へと展開する図があっても不思議ではないとしている。

大谷吾道氏とは正信会の大谷吾道師のことで、だとすれば懐かしいし、まさか名前が出てくるとは夢にも思はなかった。

十月二十八日(土)
僧△の門流は江戸時代には、上野X寺、西山本門寺、下条妙蓮寺、保田妙本寺の硬派と、北山本門寺、京都要法寺の柔軟派に分かれた。そして硬派のX寺と柔軟派の京都要法寺が通交した時代があり、X寺に造像論が流入した。これを破すため日寛が現れ、そのため京都要法寺が一時は硬派に転じ、京都の法華宗各派が寺社奉行に訴へて法難となり、このときX寺は要望寺を見捨てて逃げたため、以後は関係が悪化した。
日寛自身が書いたやうに日寛の説は無敵だった。しかしあまりに強力過ぎて明治以降は、X寺とXX会を除いては受け入れられなくなった。今でもXX会が日寛に従ふことには敬意を表するが、或いはX寺では内心は受け入れなかった僧も多かったのではないだらうか。その証拠に日寛の著作は高僧しか見ることのできない時代があった。
「尊師実録」の時代と、江戸時代では硬派と柔軟派がずいぶん入れ替はったが、私自身は今ではすべての宗教は止観の方法との立場に至った。座禅も題目も念仏も、キリストに祈るのもコーランを唱へるのも全部、止観の方法の違ひに過ぎない。とは云へ、僧Xの時代、六老僧の時代、その弟子孫弟子の時代にどのやうな教義だったかを探ることは重要だし、信行の励みとなる。立正大学も正信会も法華宗X宗各派の熱意ある人士も、こぞって研鑽を進めることは人類の貴重な遺産への貢献となる。

最後に重要なことを一言追加すると、止観は科学的な意識集中法ではない。それでは宗教ではないからだ。私は次のやうに計算した。
(神々の賛同)=(歴史の長さ)×(現在の人数)×(個々の信仰心+釈尊宗祖門祖時代の教義の研究)。
これは私が作った計算式だから、いや現在の人数ではなく増加人数で行くべきだ、釈尊宗祖門祖時代の教義の研究ではなくどれだけ寺院を寄進したかだなど多少の変動はあり得る。いずれにせよ神々が賛同すれば御利益がある。だからこれまでの伝統を守るとともに僧Xの時代がどうだったかを研究することはよいことだ。(歴史の長さ)項があるから、原理主義になることはない。(完)

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