千十七(その二) 恐山の書籍感想記
平成二十九丁酉年
八月十一日(金)
まづ五年前に出版された南直哉老師の「恐山 支社のいる場所」を読んだ。私はてっきり恐山は天台宗のお寺で、そこに曹洞宗菩提寺が隣接するのだと思ってゐた。硫化水素は吹き出し口の周りにのみ影響があるのかと思ったら
電化製品はしばらく使うと軒並み不調になり、耐用年数は「下界」の何分の一。(中略)九年前、現住職が一念発起して大きな宿坊を新築しました。宿泊客のための児童販売機があるのですが、「お釣りが出なくなった」なんていう(中略)苦情をうけることもしばしばです。
私もコンピュータを一台持ち込みました。それが六ヵ月経つと(中略)スイッチを入れた途端にブシュッと音がして、さらに画面から白い煙が出て、そのままおダブツ。携帯電話は(中略)持ち込んで三ヵ月ぐらいすると、液晶画面がだんだん薄くなり、そのうち真っ青になってプツンと切れる。
器械だけではなく
新築した宿坊は、ステンレスの釘を特注して使ったそうです。一本百円以上。建設には、平地の三杯ほどの手間と費用がかかったようです。

イタコが菩提寺と無関係なことはすぐ判るが、本にはイタコが白衣を着用し、背中に、中央は南無地蔵大士、右は地蔵山 不動明王、左は釜臥山 嶽大明神と書かれ、地蔵殿のお勤めに参加する写真が載る。
死後の世界や霊魂が有るのか無いのかについて、南さんは
「答えない」というのが、ブッダの時代からの公式見解です。それを仏教では「無記」と呼びます。
と答へられてゐる。これだけだと、多くの曹洞宗の僧侶が答へる内容で、不十分だ。南さんは二十年永平寺で修業しただけあってこれで済ませることはせず
「ある」と答えても、「ない」と答えても(中略)せかいの体系がとじてしまうからです。
まづ「ある」が駄目な理由は
「死後の世界や霊魂がある」と話をしているのが、みんな生きている人だからです。
次に「ない」が駄目な理由は
神話でも民話でもいいのですが、古今東西どこでも、この類の話がない民族も社会もないのです。(中略)人間が昔からあらゆる場所で延々と語ってきたことを、まったく根も葉もないと断定することもまたできません。
これは明察だ。結論として
簡単とは言えない人生を、最後まで勇気を持って生き切るにはどうするか。それこそが仏教の一番大事なテーマであって、死んだ後のことは、死ねばわかるだろう、ぐらいに考えればよい。これが仏教の公式見解だと私は思っています。
これが正解だ。ただし科学万能の現代にあっては、死後は無いと云ふ感覚が優勢になってしまふ。だから、仏教は死後があることを前提とするが、それは我々の考へる有る無しの概念を超越する、と云ひ替へることもできる。

八月十三日(日)
次に森勇男さんの「霊場恐山と下北の民俗」を読んだ。今も細々と残る山掛け。田名部円通寺から幣束を切ってもらひ、その理由は釜臥山が円通寺の所管で、「奥州南部田名部釜臥山正一位嶽大明神御綸旨」と書かれた江戸時代に神道宗家吉田家から下された文書があるさうだ。
恐山は円仁が開いたと云はれ天台宗だった。室町時代に廃絶となった。その後、円通寺の僧によって再興され
釜臥山菩提寺となって円通寺の別当が管理に当っている。ところが
釜臥山に祀られている釜臥山大明神は菩提寺の「奥の院」といわれながら、本山派修験の田名部大覚院が別当を勤めており別々に支配されている。
信仰上からも霊場恐山は(中略)老若男女特に女性や子どもを守る衆生の里であるのに反して、大明神を祭る釜臥山はあくまでも女人禁制の山とされ、登山礼拝には厳重な精進潔斎が求められている。
現在登山を許されているのは(中略)三地区に限られており、登山も八月十三日の一日に限られているのである。
田名部大覚院をインターネットで調べると、円通寺に隣接する大覚院熊野神社(大覚院薬師堂)だ。川沿ひの薬師堂に馬頭観音が祀られてゐたが、明治維新の廃仏毀釈で円通寺慈眼堂に移され、代はりに太平神明宮(大平村新高観音堂)の十一面観音が移さたさうだ。
あと、この本には死者は信濃の善光寺に行ったあと恐山に来るとの記述がある。死者が恐山に来る言ひ伝へは、南部藩のものか奥州全体のものか、それとも信濃を含む東国の広範囲のものなのか興味のあるところだ。

八月二十日(日)
楠正弘さんの「庶民信仰の世界」によると
昭和四五年に調べた下北の二四村落(任意抽出)における村里の小祠の祭祀者について、「修験もしくは別当」と答えた村は十一ヶ村であり、「神主」と答えたもの三ヶ村、「氏子総代」が五ヶ村、「信仰の篤い人」が二ヶ村、その他が三ヶ村であった。明治の神仏分離以来、既に一〇〇年を経過し、修験が下北から姿を消してから一世紀を経ているにもかかわらず、村里では、村内の小祠の祀宰者を「修験」と呼んでいるところをみると、いかに修験が下北の人びとの営む小さい規模の祭りに関係していたかが分ってくる。
その一方で
修業を達成した者に免許を与えるというようなことはなかった。したがって(中略)恐山や釜臥山が、その修行の道場ではなかったので、恐山を羽黒や熊野等と同一視することはできない。

140頁に昭和五十三年の宿坊の写真が載る。ずいぶん立派なものだ。今の宿坊はその延長線上にあるから立派なのもやむを得ない。私には本堂左の木造の建物辺りを好むが。170頁には昭和四十九年の大祭か何かのときのイタコ配置図が載る。八戸、青森、五所河原、青森などから三十八人のイタコが本殿前の広場から本殿横までを囲む。イタコとは古くからの伝統として尊重存続させるべき文化財だが、その一方でイタコが恐山の祭りに来るやうになったのは戦後と云ふ記事を読んだから、ここではあまり興味がなかった。

八月二十一日(月)
宮本袈裟雄さんと高松敬吉さんの「山と信仰 恐山」によると、まづ下北半島の地図でむつ市、東通村など北側が下北郡、野辺地、六ヶ所村など南側が上北郡だと判る。古文書にある「陸奥國北郡」の意味が理解できた。
硫黄の採掘について
明治二十六年(一八九三)から三井鉱山合名会社が新式の設備を設け、同三十一年まで大規模な採掘を続けている。その時、宇曽利湖唯一の流出川である正津川の水落口が五尺(約一.五メートル)ほど切り下げられた。そのため湖水面が低下し、亜硫酸ガスの噴出が増加したことから、周辺の樹木が大量に枯れるという被害にみまわれたという。
正津川については
東北電力がこの架線を利用して大正十五年(一九二六)から昭和三十年まで正津川発電所を創業してきた。現在、太鼓橋から湖水中央に向かって見られる異様な木柵は、当時の導水柵の名残である。
参詣道は田名部道、大湊道のほかに、大畑道があり
津軽海峡沿岸の村々の人たちはもちろん、松前藩の人びとにとっても大畑町正津川からの参詣道が主要なものであった。
ここには浄土宗の優婆寺があり
昭和十七年に独立して一寺をなしたもので、それまでは優婆堂と称され、大畑町宝国寺持ちのテラコ(庵)であった。(中略)恐山参詣の人びとにとって禊所として機能してきた。

最後に特記すべきは地蔵堂本殿を上寺(うわでら)と呼ぶ箇所か。

八月二十六日(土)
楠正弘さんの「庶民信仰の世界」を見よう。昭和五十九(1984)年に出版され上記の各書籍に引用されたので、ここで特記することはほとんどない。強いて挙げれば
修験は寺院や神社と異なって、一代一代その名称が変る場合が多い。たとえば、目名の不動院では、開祖は自覚院というが、二代・円蔵院、三代・不動院、四代・三光院、五代・不動院(三光院の子)、(中略)七代・威徳坊、八代・三光坊、九代不動院となっている。
寺院や神社は名前がある。しかし修験は自宅を用ゐたから道場主の院号を施設名に用ゐたのではないか。それよりここで注目すべきは院号や坊号は僧に用ゐるが、修験にも用ゐたことだ。
また、田名部の大覚院の過去帳は、世襲的な傾向が明細に記入された系図であるが、それにもかかわらず、修験の名称は一代ごとに変わっており、初代・大宝院、二世・千海坊、三世・円覚院、四世・大覚院と記されている。
これも同じ理由で説明が可能だが、大覚院は施設の名称として定着したのだらう。次に修験持堂社の表がある。これによると目名には熊野宮、大日堂、月山宮、庚申宮があり、それぞれ別当は不動院、宝常院、々、々とある。田名部は薬師堂、熊野宮、十一面観音堂があり、すべて別当は大学(ママ)院だ。
書籍の後半は第二部「オシラサン信仰」だ。男女とも人間の頭をしたオシラサンと、男は馬の頭のオシラサンがある。

八月二十六日(土)その二
最後に、いそやまたかゆきさん、りょう子さん共著の「北限のサル 世界の一番北でくらす サルの物語」を見よう。三重県津市に生まれ15年間写真スタジオに勤務の後に下北郡脇野沢村(現、むつ市)に引っ越しユースホステルを経営。春はサルの出産の季節だ。
この時期に出産した母ザルたちには大事な仕事があります。赤ちゃんザルをだいて、群れのおすザルたちのすぐ横に座るのです。(中略)たいていのおすザルは知らんふりをしていない。ひどいのはにげてしまいます。それでも母ざるはあきらめません。追いかけて、また横に座る。(中略)ニホンザル社会では、人間とちがい、家庭の中のお父さんという存在はありません。群れのおすみんなでこどもたちを守っているのです。こうした母ざるのねばりで、赤ちゃんが群れの中で安心してくらせるようになるのです。
この書籍の一番の特徴は、サルの群れがメスざる中心の母系社会としたことだ。別のホームページで、サルの群れは後から加入したサルが先にゐるサルの真似をするところから構成されるとあるのを読んだこともある。いづれにせよ動物園のサル山は特殊現象だし、高崎山のやうに餌付けをされた群れも特殊なのだ。(完)

(その一)、全宗教(百三十九)全宗教(百四十一)

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