61、史上最悪の誤訳(自由という訳語は国を亡ぼす)
平成十八年
七月八日
加地伸行氏は、日本で最も良識ある中国専門家である。その加地氏が「狂気はここに始まる」という論文集で次のように語っている。
「儒教なくして日本なし」
藤沢南岳が弟子に「最近世間では自由、自由と言っておるが、あれはどういう意味か」と尋ねた。
弟子が「自己責任を持って行動するという意味の"Liberty"の訳語です。」と答えると「それは誤訳である」と言った。自由は仏教用語で「勝手気まま」という意味なので「道理と訳せ」と言った。
この誤訳が国を亡ぼそうとしている。
七月十五日
加地氏は著書「現代中国学<阿Qは死んだか>」で次のようにも語っている。
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XX教の場合、その神とは、唯一絶対神であるから、この畏れが抑止力となって、人間は自己を厳しく律する。自律である。自律があれば自立できる。それが自由であり、ここに、個を確立した個人主義が生れる。
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もし畏れを失ったとき、個人主義は簡単に利己主義に転ずる。
東アジアについては次のように述べている。
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儒教の世界では、人間の利己はその家族が抑止する。
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今日の日本においては、家族の抑止力を前近代的なものとしてやみくもに拒否し、家族に対する畏れを否定しているのであるから、またXX教抜きであるから自律も自立もなく、ただあるものは、自分の勝手だけである。すなわち欧米から導入した個人主義は、いとも簡単に利己主義へと化した。
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これが明治以来、進めてきた「脱亜入欧」の真相である。
七月十六日
自由経済には規制が必要だし自由な社会にも法律による規制がある。一方で江戸時代にも自由はあったし鎌倉時代にもあった。つまり自由とは0か1かという離散量ではなく0.2もあれば0.58もある連続量なのである。二分割は不可能である。それなのに、日米は自由と民主主義という共通の価値感を持つ、などと大上段に構える人がいる。こういう人間を世界標準では『売国奴』と呼ぶ。なぜ売国奴が現れてしまったのだろうか。それを次に考えてみよう。
七月二十日
今日は重要なニュースが二つ報道された。
一つ目は、日本は貧困率の割合が最も高い国の一つになったことをOECDが発表した。相対的貧困率は加盟国の中で米国の13.7%に次ぐ13.5%で二番目の高さである。
二つ目は、昭和天皇が「私はあれ以来参拝していない。それが私の心だ。」と靖国神社にA級戦犯が合祀されたことに不快感を持っていたことが明らかになった。
この二つのニュースは売国奴どもと関係がある。売国奴は国内で解決すべき問題に逆行するという法則性がある。
七月二十四日
今の日本には自由が過ぎる部分と足りない部分がある。足りない部分の例として35歳辺りを境に転職が困難になること並びに個人事業主が育ち難い環境、即ち職業選択の自由が乏しい事をあげられる。ところが自由と民主主義とかを主張する人たちは自由が足りない部分は放置し、自由がありすぎる部分例えばわいせつ図書や性道徳の乱れ等に対しては益々自由を増大させようとする。なぜこのような態度を取るのだろうか。それは国内問題を自力で解決できず只欧米の単語の真似をするからである。
非正規雇用者の増大が日本の社会に与える悪影響を考えるときに、このまま放置してよい訳がない。靖国問題は国家の施設であるべき慰霊施設を聖教分離とかいう欧米の発想で無理やり一つの宗教法人にしたことが原因である。
国内問題は国内の叡智で解決する、その一貫として自由と民主主義という誤訳は訂正する。この二つが日本を救う唯一の方法であろう。
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