50-1 中西輝政氏について
10月5日
京都大学教授の中西輝政氏はイギリスかぶれだと思ってきた。
その理由は中西氏が、日英同盟当時の日本について、イギリスはマナーを重視する国なのに、日本がイギリスに援軍を送らなかったりしてマナーに反した、というような内容を書いていたからである。
イギリスは世界で一番多く植民地を持っていた。そんな犯罪者の親分みたいな国はマナーを語る資格はない。
「というような内容」という曖昧さを解決するため、中西氏の著書を何冊か調べたが、どの著書だったか判らなかった。しかし、中西氏について大きな発見をした。
10月7日
書籍を探すうちに、「国民の文明史」に出会った。読むうちに内容の優れていることに感嘆した。
根本では文明に関して中西氏と私は大きく意見が異なる。私は次のように考える、日本文明なる用語は存在しない、世界にあるものは欧米流科学万能文明だけであり、その内部に反科学万能分派、反欧米分派などを抱えている、その欧米流科学万能文明の下に、日本文化や韓国文化、フランス文化などが存在すると。
だからハンチントン式日本文明を最初に述べた中西氏の主張は私の考えとは異なるが、それは小さな問題である。「国民の文明史」を読みながら、六年前を思い出した。
小渕私的懇談会が珍説を発表したときに、これに反対した中西氏の主張を読み、中西氏こそ正しい主張を行う学者だと思った。私が注目した保守派と言われる学者の第一号である。
その後、中西氏の執筆は欠かさず読み、京都で神社の祭礼で天候が急変したのを日本が立ち直る兆候だという文に、京大教授でありながら科学万能に一定の距離を保つ姿勢に共感したものであった。
その中西氏が、数ヶ月後がっかりする文章を書いた。確か日米安保条約問題が絡んでいたと思う。それまで信頼していただけにその落胆は大きかった。その後、中西氏に代わり西部氏が正しいと思うようになった。だから西部氏は保守派注目学者第二号である。
その私が今、「国民の文明史」を読み中西氏を改めて見直した。世の中には優れた学者がいるものである。
その一方で、もしかするとこの本の最後にはこういうことが書かれているのでは、と心配になった。
10月8日
姉妹本の「国民の芸術」(田中英道氏)という本を二年程前に読んだことがある。有益でいい本だったのに、厚い本の最後の僅かな部分に、「アメリカの占領中の検閲や言論弾圧は、一方で民主主義の名のもとに行われ、軍国主義に対する文化主義を取る傾向があったから、日本人は積極的に欧米文化を受け入れた」と述べる一方で「その欧米化の中に社会主義・ソ連への期待があった」とあり、その後共産主義への批判が続いていた。
「国民の文明史」も同じではないか。さっそくもう一度読み直してみた。
短期の楽観長期の楽観など見るべきものもあったが、全体では大した内容ではなかった。問題点を以下に述べたい。
- 日本文明をアジアから独立させたこと自体は小さな問題だと、中西氏を最大限にかばるつもりでいたが、アジアの他の文明と欧米文明を同等に置いている。
日本とアジア各国とは長い文化交流の歴史がある。他方、アメリカとの間には日付変更線があり、黒船以前には交流はなかった。そもそもアメリカは先住民の大陸であった。
オランダなど欧州と細々とあった交流を差し引いても、アジアと欧米を同等に扱うことは間違っている。
- バグビーが50年前に、現存する文明はこの200年間以内に西欧文明の周辺文明になってしまった、と述べたのに対し、ハンチントンは、アメリカを含む西欧文明は、その力においては依然、他に抜きんでて大きなものを残しつつも、文明としては他と並列にある一文明となった、それが冷戦終結後の世界に現れた「新しい現実である」、と言い切っていることに中西氏は100%の賛同を示している。
バグビーの時代は白人が世界を植民地にした時代である。一方ハンチントンは世界を制覇すべきアメリカ文化が優位に立ちつつも未だ達成していないという傲慢さが現れているではないか。それをバグビーの時代と比べてハンチントンの時代は西欧文明が後退したと危惧するのは、イギリスかぶれとアメリカかぶれが過ぎるというものである。
- 日本文明の特長は換骨奪胎にあるとしているが、だからアメリカ文化を流入しても大丈夫だと正当化する意図が見られる。日本はアジアとは長い文化交流の歴史があるがアメリカとはない、と先ほど述べたように、アメリカ文化には免疫がないため、このまま流入を続ければ日本文化は混乱して滅びることは今の日本、特にテレビ番組を見れば明白である。
- 「もしペルーが来なかったら」と、黒船被害者である日本を黒船に感謝しろ、とまで言っている。江戸と明治は一つの時代という珍妙な説もある。
なぜ数日間ではあったが、「国民の文明史」を優れていると思ってしまったのであろうか。それを考察してみたい。
10月12日
姉妹本「国民の芸術」の問題点は、最後の部分に国内の共産主義への批判があることである。
西部氏が主張しているように、アメリカと旧ソ連の対立は進歩主義の個人派対集団派の内ゲバに過ぎなかった。ソ連が解体した後に共産主義の批判を繰り返すことは、ただでさえアメリカかぶれが多い日本に、益々アメリカかぶれを多くする効果しかもたらさない。
保守主義の中心思想である平衡主義に反している。
それでも「国民の芸術」の場合は、本文が優れている。
10月14日
「国民の文明史」は、日本のアジア離れ、アメリカ属国化を進めるだけの本であった。
中西氏はこの本で、国民を指導層と一般に分ける主張をしているが、指導層、知識層、一般層の3つに分けるべきである。学者は知識層である。
知識層の中西氏が細部を論評するときは優れていると一時は感じることがあっても、根本が違うから長くは続かないのである。
10月15日
今回は、中西氏をイギリスかぶれアメリカかぶれと切り捨て、返す刀で英語英語アメリカアメリカとわめく人たちを列記しようと予定していた。しかし中西氏は知識層としては切り捨てるに惜しいため、急遽内容を変更した。
あの小渕私的懇談会の発表に反対した功績は大きい。
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