40、地域共同体再生のために
平成十七年三月六日



数年前まで私は本籍を浦和にしていたが、同市が与野、大宮と合併し、さいたま市となるに及んで、県外に移動させた。本籍が「さいたま市」ではあまりにみっともないからである。住居の引越しは難しいが本籍の移動は簡単である。本籍がひらがなカタカナ歴史を無視した地名の人は、移動させたほうがいい。


1 地名に見る行政の怠慢と増長
浦和市は、昭和9年までは北足立郡浦和町であった。同じ北足立郡の与野、大宮と合併するのだから、北足立市または足立市と命名すべきであった。それを妨げたのは、都内に足立区が存在することと、県名が埼玉県だったからであろう。ちなみに埼玉郡は行田や春日部方面である。
本来、東京都足立区は東京都南足立区、埼玉県は北武蔵県とでも名乗るべきであった。

2 日本史上最悪の地名・南セントレア市
南セントレア市なる無教養な地名が誕生しそうになった。幸い、住民の良識により合併そのものが中止になった。
中央アルプス市や太平洋市という軽薄な地名も中止になった。
自治体名には他の自治体と区別するという目的以上の役割はない。自治体が地名を決定する権限を持ってはならない。江戸時代でさえ幕藩ともにそのような権限はなかった。例えば幕府が武州を「将軍お膝元州」と改名することはなかったし、薩摩藩は日向の領地を薩摩や大隈と称することはなかった。

3 正しい地名
自治体の名称は番号にしたほうがいい。例えば埼玉県秩父市の代わりに第12県第7市と名乗るのである。相応しい名称がある場合に限り、特例としてそれを名乗るべきである。
地名については、自治体とは関係無く国名郡名を用いるべきである。例えば東京都豊島区の南大塚・北大塚は武州豊島郡西巣鴨と名乗るべきである。(ちなみに大塚は文京区の地名であり、豊島区の南北大塚は正しくは西巣鴨である。文京区大塚の北に豊島区南大塚があるのはそのためである。)
その地域の東京ガスの担当営業所が変わったからと言って地名を変更すべきだと思う人はいない。行政地域も同じである。どこの市役所の担当か、どこの県庁の担当か、そんなことは地域の住民も役所も皆、知っている。地名に反映させる必要はない。
岐阜県に編入された山口村も、信州木曽郡山口や信濃国西筑摩郡山口を名乗ったほうがいい。

4 郡の復活
井尻千男氏は著書「日本再生」で、次のように語っている。
・郡は生活圏と重なり地理的条件から言っても山の稜線、大河川の両岸で区切られ、農業者も工業者も商業者もいる
・食糧の自給率が40%に満たない日本は国民が郷土愛を失ったことの証拠でもある。イギリスが約80%、イタリアも80%、ドイツは90%
・共同体意識を持てというのは、お互いに人件費ぐらいは保証し合おうじゃないかということだ
・西洋人が日本人に向って誇る個人主義が、この神なき世紀にあって、いかにボロボロになり内実のない中空の営みになりはてたのか、そのことを当の西洋の多くの知識人は承知している。
井尻氏は著書「日本危うし」で次のようにも述べている。
・郡を復活すればおよそ人口規模も十万に近づく
・明治の郡制草案にも書いてある。郡は古来より存し、人情風俗を同じくし、郡民の相ともに団結するやほとんど天造の如し。


5 復古を持たない革命
更に井尻氏は発言者双書「共同体を保守再生せよ」で次のように書いている。
・復古(リストレーション)という核心部分を持たないような革命(レボリューション)はすべて失敗するだろう。ある詩人が保守主義者こそ最後の最強の改革者なのだと歌った
・啓蒙主義の延長線にある理想主義は左派であれ右派であれ固有の歴史を粗末にすることにおいて共通している。


6 明治維新
藩を廃し県を置いたことは地域を破壊する所為ではなかったのか。外国の脅威と旧藩の影響力を削ぐなどやむを得なかった事情もあろう。しかし廃藩置県と神仏分離とはそれまでの日本の伝統を破壊し、それは第二次世界大戦に向う下り坂を転がり落ちる始点でもあった。
藩を廃止しても琉球蝦夷を含め70州に近い道府県にするのではなく、従来の藩を多少の合併併合に留めるべきであった。70州は自治体ではなく地名として従来どおり活用すべきだった(70州は陸奥、出羽の分割前の数)。
寺院も神仏分離ではなく寺請け制度以前に戻すべきだった。そうすれば恐慌も敗戦もなく、現在の国内混乱の原因である、マッカーサーによって国をめちゃくちゃにされることもなかったであろう。
復古が、太古や短期間しか存在しなかった時点に返ることは余りに危険が大きい。今の日本は江戸時代末期あたりを指標とすべきである。国名郡名の復活もその延長線上にある。だから東京が例えば武州荏原郡などと名乗らず江戸荏原郡や東京荏原郡を名乗ることに何ら問題はない。


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