30、日本に宗教は要らない

平成十六年五月廿三日

六郷川を渡り旧東海道を西に向って歩くとすぐに川崎の街に入る。更に進むと生麦事件の石碑の辺りで国道15号と合流する。その少し先の子安通り1丁目の道路端の公園に八重地蔵というお地蔵様がある。 昭和39年の夏、ラジオ体操に向う小学生の女児が大型トラックに引かれて亡くなり、その後広い道路の半分が公園となり、そこにお地蔵様が建立されたと書かれている。 今だったら公共用地にお地蔵様を立てるなんぞ考えられない。昭和39年という今から40年前であったこととこの辺りが昔ながらの漁師の町だったからできたのであろう。

1 宗教
宗教という言葉は明治維新の後に作られた人造単語である。宗教とは恐ろしい単語である。日本人が先祖代々受け継いできた習慣を宗教という狭い枠に押し込めているからである。 人と会ったら挨拶をする、頭を下げる、言葉を交わす。正月にはおせち料理を食べ年賀状を書く。相撲の取り組みの前に力士は力水をもらい、四股を踏み、塩を撒く。神社仏閣や自宅では目に見えない生命や先祖の霊を祭りご飯やお酒を備える。どれが宗教でどれが違うと分類できるものではない。

2 政教分離
宗教が無意味である以上、政教分離という言葉も無意味である。欧州ではフランス革命や宗教改革といった長い歴史の結果として政教分離が生まれた。しかし欧州でも国によって異なる。ドイツには教会税があるしキリスト教民主同盟という日本の自民党に当る大政党もある。キリスト教に関係した祝日も多い。 フランス革命やカトリックプロテスタントの争いとは無関係の日本が政教分離を叫ぶ必要はまったくない。

3 キリスト教
キリスト教は、アジアの有色人種であるキリストの教えが欧州に広まったものであり、地球を東回りに広まっていれば今とは違うものになっていた筈である。 日本のキリスト教徒は日本の風習と調和する方法を考えてほしい。外国人の干渉を受けるべきではない。名称もキリスト教ではなくカトリック宗や日本基督宗に変更したらどうか。宗教の中に仏教やキリスト教があり、それぞれの中に天台宗、真言宗やカトリック、プロテスタントがあるという考え自体が明治維新後のものである。 渡部昇一氏や曽野綾子さんには、キリスト教徒は日本の風習にどこまで協調できるかという手本を示してほしい、キリスト教徒がすべて戦後生まれになる前に。

4 生物
生物とは何かという問いに答えられる人はいない。ウィルスが生物かどうかさえ意見が分かれる。人体から取り出したがん細胞を培養したものはどうなのか。生物と非生物を自然科学によって分けること自体が科学万能教という世にも恐ろしい淫祠邪教なのである。 民族によって生物の考え方は異なる。日本人は山や木、石にも生命を感じているのである。これらの神仏にご飯や御神酒を供えお経や祝詞を読むことは飼い犬に餌を与える事と同様である。キリスト教徒にとっても何ら問題はない筈である。これら生命すべてを神様がお作りになったからである。

5 戦後の日本
戦前は非欧米で唯一の軍事大国、戦後は非欧米で唯一の経済大国と浮かれているうちに、日本は世界でもっとも異文化接触の被害を受けてしまった。先祖から受け継いだ文化を子孫に伝える事は我らの世代の勤めである。全国いたるところに八重地蔵が祭られる日本にすべきである。

先頭のページへ 前へ 次へ