九百六十九 佐藤勝治さん「”冬のスケッチ”研究」
平成二十九丁酉年
五月七日(日)
昭和59年に佐藤勝治さんの「”冬のスケッチ”研究」が出版された。519ページのうちの最後の25ページ(このうち5ページは題と空白ページ)に「附録(二)賢治をめぐる恋人たち」がある。
小沢俊郎氏は名著「薄明穹を行く」の一章「川しろじろとまじわりて」の中で、次のように書かれている。
「伝記的に確認されていないこの頃の恋愛感情について、(中略)恋と病熱(三・二〇) 春と修羅(四・八) 春光呪詛(四・一〇) 雲の信号(五・一〇) 小岩井農場(ことに「パート九」五・二一) マサニエロ(一〇・一〇) 松の針(一一・二七)
読み方では、恋愛以外の感情ととれる作品もあるが、私には、恋愛感情として一本の糸を通したほうが納得ゆく解釈のできる作品群である」
そしてこの文章の補注に
この原稿を書いた時点ではもちろんわかっていなかったことであるが、昭和五十一年一月の宮沢賢治研究会大阪支部の研究会で堀尾青史氏は、次のようなことを述べられた。
『大正一〇年帰花した賢治は、ある女性を知り、思慕の情を抱いた。互いに話し合うこともあったそうで、近親者の中には、二人の結婚を予想しているものも多かったという。その恋が稔らなかったのは、賢治が生活力のなさを父に批判されたことと、妹とし子の死に遭ったことが主な原因ではなかろうかと想像される。』
生活力の無さは逆だと思ふ。このとき賢治は農学校の教師だった。

五月九日(火)
小沢氏の右の著書は昭和五十一年十月発行であり、そのあと昭和五十三年に出た境忠一氏の「宮沢賢治と女性」(主婦の友社刊)にも、この『春と修羅』前半にかくされた女性については、小沢氏と同様に「明らかにされることを望む」と書かれている。
この女性は未だに不明であるらしい。
  (ここに一行空白)
五、六年前、私の家の近くに住む、私と同じ花巻出身の、私より年長の奥様が、賢治と恋愛関係にあったが実らず、失意のまま外国へ行って、若くして死んだある女性のことを話され、(中略)この奥様の姉様の親友だった由である。奥様の姉様やこの女性たち七・八名は、藤原嘉藤治・宮沢賢治の音楽グループに入っており、この女性(仮にY子さんとする)は、その仲間の姉さん格であったという。
この(ここに一行空白)で事情が一転する。貴重な一行だ。

五月十日(水)
Y子さんのご家族の一人からお聞きしたお話は以外であった。
これも時期とすれば、とし子さん(賢治の妹)の亡くなった恰度その前後にあたることになるが、(大正十一年末から大正十三年初めにかけて)、それまで健康で非常に明かるかったY子さんは、急にかっかりふさぎ込み、無口になり、衰弱していった。そしてある休暇に、(大正十二年の冬らしい。とし子さんの亡くなった翌年である。)二、三日山の温泉に行って来たいと家族に云った。常は勤めから帰るとすぐ母に手伝ったり、弟妹の世話をしてすべてにやさしく勤勉であったその姉は、その頃は何かを思いつめているようになっていた。けれども姉の心を測りかねた直ぐの妹は、
「姉さんの贅沢!」
と、やっかんでなじった。姉は、
「かんがえごとをしたい。」
と悲しげに云って家を出て行った。
(中略)妹は、姉の心中は少しも知らなかったである。(いまになってみると、母だけは知っていたのかもしれないと思われるのだが・・・・・と。)
山の温泉から帰ったあと、弟妹たちの驚いたことに、あっという間に、まるで不似合な結婚を承諾して、アメリカへ行ってしまった。
大正十三年五月の渡米である。-すなわちとし子さんが亡くなられた翌々年の春である。
佐藤さんは、Y子さんについてはまだ書くべきときではないと云ふ。まだ関係者が生存した時期だった。

五月十日(水)その二
佐藤さんの「”冬のスケッチ”研究」にはもう一人の女性が登場する。佐藤さんが堀尾青史さんに電話を掛けたときのものだ。
「”春と修羅”の初期の恋人というのはY子さんではないか?」
「ちがう。そんな人は知らない。」
「それでは誰か?」
「死んでいる。
ピアニストだ。
教員もやった。」
(中略)この経歴の女性なら私にも見当がつくのである。それぞ木村杲子さんである。(中略)堀尾さんの指摘された杲子さんは、「春と修羅」初期の頃(大正十一年)はまだ十三才、(以下略)
二人の出会ひは次のやうだった。
杲子さんが上野音楽学校に在学中の昭和五年八月暑中休暇中のことである。
昭和三年から五年春までの最初の大患がようやく癒えて、庭の草花などの世話をして運動を始めていた賢治は、親友嘉藤治に頼んで、帰省中の女子学生を中心に、東公園で座談会を催してもらった。(中略)以下は嘉藤治の文章からである。
「(前略)賢治は『近年にない好宴に招かれた。』と云って大へんよろこんだ。特に出席者の一人木村杲子をほめそやした。
杲子は賢治の「春と修羅」の愛読者で、(中略)かの女の虔ましい一口二口の話し振りや、瞳の叡智的なしかも純情な輝きにぐっと感じたらしい。」(『新女苑』昭和十六年六月号)
堀尾さんが「宮沢家の方々が二人の結婚を予想していた。」と話したのはこのとき以降のことで、杲子さんは二十一歳だった。佐藤さんは
この時ならば賢治は失職中でもあり、
「父が生活力の無さを批判して反対した。」
といわれるのも肯ずける。が、大正十一、二年の「春と修羅」の頃は、既に賢治は花巻農学校の教諭で(中略)、父が経済的理由で反対することは無かったであろう。
と推定する。

五月十一日(木)
賢治が生涯独身だったことと、定職に就かなかったことは、たまたまさう云ふ成行きになっただけで、状況が変はれば結婚したし、定職を継続した。まづトシの病気が治癒すれば、賢治はY子さんと結婚しただらう。そして農学校の教員を続けただらう。
賢治とY子さんの結婚が破談になったのは、佐藤さんの説を採りトシの病気のためだとした。Y子さんの母親が反対したと云ふ足立さんの説は、足立さんがその母親から生まれる前の話を聞いたことなので、今の時点では不確実とした。
賢治が結婚し農学校の教師を続けたとして、「雨ニモ負ケズ」は世に出ただらうか。病気が重くなれば書いただらう。しかし「春と修羅」は今とは内容が異なり、そもそも発刊しなかった可能性が高い。発刊しなければ草野心平が賢治に注目することはなく、死後にトランクから手帳が発見されることもなかった。
佐藤さんが付記に書いた次の話は、心が休まる思ひがする。
一 Y子さん、ちえ子さん、杲子さん、そしてとし子さん、みな肺結核で若くして亡くなっている。賢治もまた。
五 Y子さんの結婚はけっして不幸ではなかった。かなりに年令の違う夫ではあったが、深く愛し愛されて、二人の子を持って睦ましく暮らしたと縁故者は語っている。本稿はY子さんの若き日の夢のような経験で、その後の結婚生活は又別の新しい正しい生活であったことはもちろんである。ただY子さんの二人のお子さまは夭折されたと聞く。
(完)

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