九百六十七 給料振り込みを埼玉銀行に復帰
平成二十九丁酉年
四月二十九日(土)
今月から給料振り込みを埼玉銀行(現、埼玉りそな銀行)に戻した。思へば私が最初に就職した当時は、給料が手渡しだった。その数年後に給料が振り込みになり、全員が強制で埼玉銀行の、しかも会社近くの支店に口座を作らされた。例外は私で、自宅近くの埼玉銀行支店に口座があったのでそこに振り込んでもらった。
富士通の子会社に転職したとき、振込口座は第一勧銀にした。古河グループだからだ。翌年、給料を銀行振り込みにしない新人が1人ゐて、1人のために会社は多大な事務手続きが必要なため(私の想像では、古河総合ビルにあった会社の経理部だけではなく富士通株式会社電子デバイス事業本部の経理まで巻き込む)ため、再三振り込みにするやう指導するのに、銀行口座が無いとか言ってしなかった。この新人は高知県出身の高卒で、この当時は大卒と高卒を半分づつ採用したが、土佐から坂本龍馬が出現した理由が判ったやうな気がした。
このとき、どの企業でも取引銀行は自分で選べるのに、強制で埼玉銀行の口座を作らせる前の会社は一体何なのだと驚いた。この会社の代表取締役は某県の県庁所在地の市長選に立候補しないかと云ふ話まであった旧家だから、田舎の名士と云ふものの実態が判る。
今は無き富士通の或る工場では、工場内に三つの銀行のATMを設置した。このうちの二行はオフラインなので予め引き降ろし予定額を設定しなくてはいけない。都民銀行だけがオンラインのATMだった。私は都民銀行に変更した。
コンピュータ専門学校の教員と、その次の技術製品輸入会社に転勤したときにどの銀行にしたかまったく記憶にない。しかし今の会社に転職し、自宅を買ふ前までは埼玉銀行だったので、おそらく埼玉銀行だ。家を買ふとき住宅ローンを組む信金に変更したあと、ローンを繰り上げ返済し、その十七年後に家を売却した後もずっと信金を使ってきた。しかし今月から埼玉銀行に戻した。
理由は会社の移転にある。前は信金の支店が近くにあり、昼休みに往復できた。今は昼休み後に30分私用外出を入れないと往復できなくなった。信金は別の信金でも手数料無しでATMを使へて便利だが、自行を含めてATMの一ヶ月限度額がある。だから窓口に行かなくてはならないことが度々ある。
と云ふことで今月から、懐かしい銀行と支店に戻った。とは云へ埼玉銀行は協和埼玉銀行、あさひ銀行、埼玉りそな銀行と名称が変はった。支店も新設された駅前に移転し名称も変はった。しかし当時のカードが今でも使へる。二十代のときから使用した埼玉銀行の青いカードで引き下ろすと感激する。通帳も十七年間の空白があるので、あさひ銀行のものだがきちんと記帳できる。

五月一日(月)
かつて都市銀行は13あった。埼玉銀行は支店の多くが埼玉県内で、あと三多摩地区にも多かったと記憶する。東京は銀座あたりに東京営業部があり、銀座に行ったついでにわざわざそこのATMで下したことがある。当時の埼玉銀行の通帳は支店名がカタカナで印字された。
23区内はおそらく10店舗程度、それ以外の道府県は数店舗だった。典型的な地方銀行だが、どう云ふ訳か都市銀行だった。
埼玉の入間地方には代理店があった。別会社が経営するのだが埼玉銀行の支店と同じ扱ひだった。入間地方に仕事で行ったときに、わざわざ寄ってATMで卸してみた。

五月三日(水)
13の都市銀行は上位行と下位行で利害が異なるため、それぞれのグループ内でのみ他行カードをATMで使用できるやうになった。100円の手数料が掛かるので私は一回も利用しなかったが。後に13行全部で使へるやうになった。このときも手数料が掛かるので利用しなかった。このころ各銀行が共同でATMを設置し、これは手数料無しで利用できた。例へば浦和コルソの入口にあって、ここはよく利用した。
その後、銀行は合併を繰り返し、共同ATMは廃止になった。そんなことをするより銀行の高給を下げればいいではないか。あさひ銀行は再度の合併のときに、埼玉りそな銀行を分離した。その結果、埼玉県以外の支店がほとんど無くなった。そのことは、今回給料振り込みを埼玉りそなに変更して初めて知った。今度埼玉県に行ったときに、一度卸してみようと思ふ。
埼玉銀行の時代と埼玉りそな銀行になってからを比べると、埼玉県から自然がかなり減ってしまった。田圃は宅地化され、道路が幾つも新設され、木造の住宅、特に一階建ての住宅が減ってマンションが増えてしまった。地球は人間だけが住むのではないから、これ以上自然を破壊してはいけない。(完)

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