九百五十一(その一) 舅さんの来訪、下の子の帰省
平成二十九丁酉年
三月十八日(土)
先週の金曜に舅さんが我が家を訪れた。岩手県の出身で大舅とともに仙台に進出し材木商を営んだ。後に廃業するが、東京だって新木場には材木が無い。円の為替レートの変動で廃業はやむを得なかったかも知れない。岩手県の家は廃業のとき舅の弟名義だったので担保に取られなかった。
舅は廃業するまでお金に苦労しなかったためか、競馬が好きだ。東北大震災のあと、福島競馬が中止になったときに、我が家に泊まりに来たことがある。中山競馬か何かに行ったさうだ。
私はギャンブルをやらない。損をすることになってゐるからだ。しかし遊びの一環として金儲けを目的とせずやるのならよいのかも知れない。
今回は夜我が家に来て、翌日と翌々日に場外馬券売り場に行き、その日の午後にバスで帰った。

三月十九日(日)
舅さんが来た翌日の朝、下の子から電話があり今バスで東京に着いたと云ふ。これは大変なことになった。五人とヘビ一匹だと人口密度が超過する。何とか舅帰宅まで一夜を過ごした。下の子はサッカーの試合を友人と観に行ったり、予備校時代の友達と飲みに行ったり、高校時代の友達と飲みに行ったりして、我が家はビジネスホテル扱ひになってしまった。
余談だが、と云ふか今回のシリーズは全体が余談だが、妻の父のことを義父と呼ぶのはよくない。義理と云ふ言葉には、参加したくないのに義理で参加しただとか悪い意味しかない。
本来は舅と云ふ単語に悪い意味は無いのだがここ30年ほど使ふ人が激減したから今では舅は悪い意味だと思ふ人が多いし、更に舅を「ねずみおとこ」だとか間違って読む人までゐる。
舅だと呼び捨てだが、舅殿と云ったのでは時代劇だ。源頼朝が北条時政のことを舅殿と呼ぶ大河ドラマを観たことがある。あの当時は今ほど大河ドラマが低質ではなかった。

三月二十四日(金)
舅さんが帰ったと云ふか場外馬券売り場に行ったあとは、四人とヘビ一匹なので人口密度が許容範囲になった。私はこの日の午後に用事があるので、四人で十時過ぎに昼食会或いは朝食会をジョナサンで行なった。私にとっては早い昼食だが、二人の子供にとっては朝食だ。
つまり子供は休日の朝が遅い。私は休日だらうと前日寝るのが夜中の十二時だらうと(今は組合活動をしないので十二時に寝ることはなくなったが)、翌朝は同じ時刻に起きる。体内時計が狂はないから健康にはこれがよいさうだ。尤も私も若いときは朝十時過ぎまで寝てゐることがあった。年をとるとより一層早起きになるのかも知れない。私は若いときから朝型人間だったが。

三月二十六日(日)
下の子が住民票を移しに区役所に行った。運転免許を取るさうだ。一日目はマイナンバー通知カードを忘れ、二日目は親の誕生日は覚えてゐたものの生年を忘れ、三日目に移動が完了した。これで年末調整の手続きが面倒になる。しかし選挙の投票が出来る。
翌日は夜行バスで帰って行った。その前に四人で夕食を食べることになったが、急遽友達と夕食を取ることになったと駅に直行した。(完)

追記四月十五日(土)
この日の夕食は駅近くで待ち合はせた。私は駅の向かひのコンビニで100円の紙パック日本酒を飲んだ後に集合場所に行った。店での注文を少なくして経費節減にも役立つ。店に入って一杯目は焼酎炭酸割りの濃いもの(100円増し)を注文した。これで終了させるためだった。
ところが飲み終はった後で妻が更に注文するやう云ふので、今度は普通の濃度のものを注文した。それを飲み終はったころ、上の子が二杯目は多すぎると云ふので、それを私のコップに入れて飲んだ。
これは別に飲み過ぎではない。しかし毎日飲む平均値を下げる努力(日本酒換算で1日1.5合以下)をしてゐるのに、特定の日にたくさん飲むとせっかくの努力が無駄になる。この日は飲料長期計画に反した飲み方だった。

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