九百三十 会社の移転と昼休みの散歩
平成二十九丁酉年
一月十三日(金)
会社の移転を間近に控へて昨日の昼休みは堀之内の妙法寺前まで行った。昼食を食べ終はり十二時十五分に会社を出発した。昼休みは四十五分間だから三十分で往復した。前に和田帝釈天まで往復したときはぎりぎりだったから一部走ったが会社には四分前に到着した。
和田帝釈天の先で斜めに分岐する商店街で三角形に折り返したことも思ひ出した。あのときは走らず間に合ったから、今回も走る必要はなかった。
妙法寺の前は門前町があると記憶してゐたが、土産物店もなくスーパーサミットのある平凡な街並みだった。想へば和田帝釈天の通りと鍋屋横丁、更には青梅街道が門前町として栄えたのだった。
一月十四日(土)
昨日は旧住所の最終日だ。中野天神まで行かう。さう決意した。中野天神はバス停の名称だけだ。実際は西町天神北野神社と称する。小さな神社ではあるが、青梅街道に面しよく整備されてゐる。今から十四年前に横浜事業所が新中野に移転したとき、渋谷から京王バスで通勤したことがあった。その後、駒沢陸橋から都営バスで通勤したこともあった。都営バスのときに中野天神前と云ふバス停があるのでそこで下車して会社まで歩いたことがある。
中野天神だと散歩にしては近すぎる。そこで蚕糸公園まで歩いた。公園内の手前の通路は小学校の脇で見るものがないので、奥の通路で池に沿って歩いた。公園裏から新渡戸文化学園の脇を通り会社に戻った。蚕糸公園は「りんしこうえん」と読んでゐたが正しくは「さんしこうえん」だ。なぜ間違へたのか理由が判らなかったが「林試の森公園」と混同したためだと判った。
一月十七日(火)
昨日は移転後の初日。高層ビルの窓からは眼下に景色が広がり、富士山と丹沢の山並みも遠くに見える。誰もがその景色に感嘆した。
給湯施設が遠くなったため、昼休みに食べ終はったら十二時二十五分。昼休みは郵便局を探して記帳するだけで終了した。
午後三時過ぎに、お金を振り込む仕事を依頼された。銀行は会社の近くにある。ところがATMは現金の振り込みができない。何回試しても駄目だった。仕方がないので私の信金のカードで振り込んで、しかし振込者は会社名にすることができた。このあとお金を私の口座に入金して完結する。どこの信金でも無料で入金できるから新宿のガード前まで歩いた。ここに信金があるはずだが見逃した。やむを得ず左折して先のガードを潜り線路の向う側から戻ったがやはり見つからなかった。中野坂上の信金で入金し一件落着した。
金融機関の場所が判らない初日だった。
一月十九日(木)
地下鉄出口からビルに行くまでの間に幾つも高層ビルがある。このうちの一つでJMITUといふ全労連の労組が抗議行動をやってゐた。私も三年前までは一般組合員のために抗議行動をやったから親近感を持ちビラを受け取った。共産党はかう云ふ人たちが中心にならなくてはいけない。そしてニセ労組シロアリ連合や日本死ねの民進党なんかと組んではいけない。かう云ふ人たちと、これらとは違ふ人たちは全労連のメーデーに参加しても見れば判る。二年前の全労連メーデーに参加して後者の組合がほとんどなので、これでは共産党は変質する訳だと合点がいったが、その後、共産党はシロアリ勢力と選挙協力するやうになってしまった。
昼休みはビルの裏側を散策した。何と藤圭子が飛び降り自殺した現場がすぐ近くだ。その先にマルエツプチがある。ここは私が所属した労組が分裂前に、ときどき昼食を買ふことがあった。労組に加入したときは無かったが、その後に開店した。労組事務所のあった場所に行ってみた。かつてうちの労組の看板とともに「全労協全国一般東京労組西部支部」の看板が並んだため加入したところ、うちの労組だけ連合に移動してしまひ、西部労組とはまったく交流が無かった。事務所跡には毛生え薬と技術会社が入居してゐた。郵便受けに会社名が無いから入居間もないのかも知れない。
帰りにドラッグパパスでカップそばを二つ購入した。思へば二十年以上前から健康のため週に二回か三回は昼食にソバを食べる。ドラッグパパスも組合事務所で昼食を食べるときはよく寄った。
一月二十日(金)
昨日は昼食を食べ終はり一階に降りると無料コンサートを開催してゐた。フルートとピアノの演奏で、12時開始なので最初の20分を聴き逃した。私の聴いた最初の曲はフルートの演奏技術を誇る曲で、フルートに詳しい人なら感心するだらう。音楽には演奏技術を誇る曲と、曲自体の作曲技術を誇る曲がある。このうちの前者に当たる。
二曲目は「ロンドンデリーの歌」でこれは典型的な後者だ。プログラムでは「ダニー・ボーイ」として紹介され、口頭で「ロンドンデリーの歌」としても知られてゐると説明があった。私は最初に聴いたのが津川圭一訳の「我が子よ いとしの汝(なれ)を・・・」の歌詞なのでこれに一番親しみを感じる。
四十年ほど前にテレビで進歩的女性と目される人(歌手?)が古臭い歌詞だと批判したが、文語の歌詞、特に明治時代に西洋音楽と和合させるために苦心して創った歌詞は貴重な文化遺産だ。当時から私は革新勢力(社会党、共産党)と文化破壊勢力を区別し、後者に批判的だった。そして革新勢力が消滅し、社会に有害な文化破壊勢力がリベラルとして残存した。一番最初の歌詞があったとして、それを復古させるのは原理主義だ。日本で云へば薩長幕府による神仏分離がこれに当たる。長く続いた歌詞に親しむのが本当の保守主義だ。それまでのものは古臭いとしてマッカーサー幕府による西洋崇拝を進めるのはリベラル、唯物論でこれは絶対に避けなくてはいけない。
この日のコンサートは12時40分までだった。残りは5分。私は急いで職場に戻った。
一月二十一日(土)
昨日は私用で昼休みに別のビルの郵便局に行った。このビルは地下一階に飲食店が幾つも入る上に、社員食堂みたいな店もある。たくさんの会社が入居するから特定の会社に勤めないと利用できない風ではなかった。値段が安くお勧めだ。
一月二十六日(木)
今週の月曜は散歩に出て芸能花伝舎の庭(建物は関係者以外入れないので)、社員食堂みたいな店の或るビルまで行ったものの寒いのですぐ引き返した。高層ビル街は強風のときがある。残りの昼休みを使って非常階段を1階から12階まで上がった。既に非常階段を25階から1階まで降りることは先週二回行ったが、上がるのは初めてのことだ。午後に25階から14階まで降りて25階に戻った。階段を上がると8階くらいで足の筋肉が重くなる。しかしそこで定常状態になる。たばこを吸う人は時間を区切って喫煙が認められてゐる。私はたばこを吸わないから無意識に仕事をすると午後はずっと座りっぱなしになる。煙草を吸う人が2階の喫煙所まで降りて吸って戻るのと同じ時間だから、この程度はよいだらう。
火曜の昼休みは新宿中央公園手前の西京信金に預金を下ろしに行った。その足で公園裏の十二社通りから一本裏の路地を歩いた。ここにテレビ芸能研修所とか書いてある二階建ての小さな建物があったと見まわすと今でもあった。かつて労働組合事務所に行くときは十二社通りかこの道を歩いた。帰りは十二社通りを歩いた。スピードワープロとか云ふ会社がビルの5フロアくらい入り、テレビ芸能はその別室なことが判った。ドラッグストアでてんぷらそば2つを買って帰社した。午後に25階から12階まで降りて25階まで戻った。煙草を1日1本と云ふことは無い。最低でも2本は吸うはずだ。私ももう一回夕方に1階から12階まで上がった。煙草のほかにリフレッシュコーナーがある。缶コーヒーを自動販売機で買って都庁の高層ビルを見ながら飲むのもよいが時間が無駄だ。それより階段を上り降りすればその後の仕事の効率が上がるし健康にもよい。
水曜は神田川を大久保通りまで往復した。折り返し点の手前に神田川の碑がある。地図で見るとここは桃園川の合流地点だったところだ。今は合流すらない。この日は1階から25階まで上がった。やはり足の筋肉は8階あたりで重くなるがそれ以降は定常状態になる。
木曜は神田川を上流側に工芸大の先まで往復した。ここは戻ってから判ったのだが先代三遊亭円楽の自宅が20m、昨年末にインフルエンザ予防接種を受けた医院は50mだ。これで移転前の散歩コースのすぐそばまで来た。
一月二十八日(土)
昨日は工芸大先で右折し、まづ医院先の丁字路で、旧職場の散歩道と合流した。一昨日は20mの差で合流しなかった。このあと道を直進すると会社裏の高層ビル建設現場まで続くことが判った。神田川は蛇行するからこの道のほうが近い。(完)
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